『恵みのとき』出版記念パーティー
今日は、カトリック高円寺教会で行なわれた『恵みのとき』出版記念パーティーに参加しました。
著者ご本人である晴佐久昌英さん(神父さまです)にご招待していただいた上に、祝辞のスピーチまでさせていただきました。
あまりにもたくさんの方が参加されたので(北海道からも九州からもたくさんの方がいらっしゃいました)、予定していた地下のホールから会場を急遽変更して、教会の聖堂にて行なわれました。
聖堂とは、みなさんが教会をイメージする時にきっと思い浮かべる十字架をバックにした、説教用の机があって、たくさんのイスが並べられている、というあの場所です。
ふだんミサを行なう場所ですね。
人生を通じて、まさかこの場所に立つことになるとは僕は想像したことすらありませんでした。
つまり、神父さまがお話をなさるその場所から数百名の方々に向かってお話しすることが許されるとは、僕には思えなかったのです。
先日書いたとおりで、僕は信仰を途中で捨てている人間です。
けれども、信仰の尊さは今も忘れたことはありません。
だからこそ、『その場所に立つことの重み』と、『その場所から人々へ語りかけることの重み』を僕は痛いほどに感じました。
市議会の本会議場で市長へ一般質問をする時とも、秋田県合川町で講演をしたあの時とも、全く異なる種類の重みを僕は強く感じました。
僕は政治家という職業に就いてはいますが、多くの方々の人前で話すということが性格的にどうしても得意ではありません。
話も下手くそです。
だから、僕にできることはただとにかく誠実であろうと努めることだと思いました。
この素晴らしい本が1人でも多くの方のもとへ届くように、想いをこめて、お話させていただきました。
会場のみなさんを見つめながら僕は父のことを想い、語りました。
(この様子をブログで書いて下さった方がいらっしゃいます)
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何とか無事に祝辞を述べることができて、ホッとしました。そして、会食&歓談のために会場を移りました。
信仰を捨てた人間であるということの恥ずかしさと、政治家という卑しいイメージを持つ職業に就いている恥ずかしさで、僕はとにかく目立たないように会場の1番後ろに居ました。
けれども、たくさんの方々が声をかけて下さって、そして、父への励ましの言葉をいただきました。
たくさんの方々の体験を聞かせて頂き、貴重な出会いの機会に感謝しました。
また、横須賀と関わりのある方々とも出会うことができました。
横須賀の福祉の貧困によって横須賀市を離れた方のお話をうかがい、こころからお詫びを申し上げました。
横須賀の福祉を必ず改善することを改めて固く決意しました。
政治にできないこと、信仰にしかできないこと
それから、『恵みのとき』の絵を描いている森雅之さんと著者である晴佐久昌英さんに、父さん宛てのサインを本にしていただきました。
晴佐久神父さまに
「あなたのHPを読ませてもらったけれど、『政治家の仕事』は『神父の仕事』にとても似ているね」
と言っていただきました。
とてもうれしかったです。
もちろん地方自治法に規定されているように、政策を議論して法律を作ることが政治家の仕事だとは思います。
でも僕自身は、信念をもって人々の声に耳を傾けることと人々に『希望』を語ることが政治家の仕事だと信じて働いてきました。
それを認めていただけた気がして、とても感激しました。
けれども、僕は政治の限界も痛いほど理解しています。
晴佐久神父さまに伝えました。
「政治は『制度』を変えることはできますが、『人のこころ』を変えることは決してできないと僕は思います。
『政治』の届かないところに明かりを灯すのは『宗教』にしかできないと僕は思います」
いろいろなお話をしましたが、とても素晴らしい方だと思いました。
晴佐久神父さまとは再会を約束して、お別れしました。
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この国は、かつて犯した過ちに対して過敏になりすぎて、宗教と信仰心に対してあまりにも強く排除してしまい、それが結果的に無宗教に人々を追い込ませてしまい、オウム真理教やカルト宗教へのあっけないほどの取り込まれる人を続出させたり、宗教への忌避や憎悪の気持ちを持たせているのが現状だと僕は考えています。
もっと正確な意味での宗教や信仰というものを諸外国のように教育の中でも教えていくべきだと僕は思います。
宗教そのものを教えるのではなく、宗教との向き合い方、多様な宗教に対する共生の在り方、それらをきちんと教えていくべきだと思います。
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東高円寺駅への帰り道、いろいろなことを考えました。
父が入院したまさにその日も、僕は視察でこの東高円寺駅を初めて降りたのでした。
今日、再びこの駅に降り立っているのは父のおかげなのでした。
こういう偶然のような出来事のつながりを僕はユングの言うところの『シンクロニシティ』だと考えています。
けれども、それを神の力によるものだと感じる人がいても僕はそれを決しておかしいとは思いません。
人生には本当に様々な出来事が起こるものだとつくづく感じています。