(前の記事から続いています)
ご遺族による基調講演「犯罪被害者となって」
次に、相模原市での殺人事件の被害者のご遺族である松原真佐江さんから『犯罪被害者となって』とのテーマでお話がありました。
(同じくここから先は、フジノのメモを基に記したもので、聞き間違いや誤解や重要な情報が欠けている可能性があります。正確なものではなく、あくまでもフジノのメモとお考え下さい)
相模原市に独り暮らしをしていた22才の長女(加代子さん)が強盗目的の加害者によって殺害されてしまいました。
無職の男が遊ぶ金ほしさに娘の部屋に忍び込んで、侵入に気づいた娘を殺害したのです。
さらに卑劣なことに娘を殺した後も、まるで娘が元気でいるかのようにメールを私たちに送り続けたのです。
心配で娘にメールを送るとメールは返ってくるのに、娘の家に電話をかけても出ないんです。
そこで娘の会社に電話をすると、
「もう2日間、娘さんは無断で欠席しています」
とのことでした。
私は長野県に住んでいたので体調的に厳しいので、息子と息子の友人が相模原市の長女の家を一緒に観に行ってくれることになりました。
相模原へは高速を使っても3時間かかります。
「ああ、どうしよう、どうしちゃったの?」
と私は苦しみ、悩みました。
メールをしてもちゃんと返事は返ってこないし、電話をかけても電話には出てくれない。
長女の性格を考えると絶対にそんなことはしないので、ある瞬間から、親の、直感で気がつきました。
携帯を持っているのは加代子じゃない、
そう気づくと私は部屋の中を歩き回っていました。
娘のアパートには誰もいませんでした。
息子は、すぐに警察に捜索願を出しました。
所轄である相模原署では、すぐに捜査にあたってくれました。
始まってまもなくです。
「最悪の状態になりました」
と伝えられました。
アパートの中から遺体が見つかったのでした。
殺人事件、という自分からとても遠いはずの出来事が自分のとても大切な娘に起こるなんて。
私は、立っていられなかったです。
まるで奈落の底に突き落とされたようで、どうしたらいいか分かりません。
息子は昨日アパートを自分が必死に見たのに(遺体がアパートから警察の捜索で見つかったことから)娘を見つけられなかった自分を責め、ショックで大声で叫んでいました。
夫は、状況を少しでも把握する為に必死に落ちつこうとして、すごく怖い顔で警察の人と話をしていました。
娘のなきがらは、警察が紹介したセレモニーセンターで預かってもらう手続きがとられました。
私たちは相模原署への協力の為、犯人が持っているであろう携帯へメールを送り続けました。
相模原のアパートへ娘の様子を見に行ってくれただけなのに、当初、息子は殺人への関与を疑われながら、暑い中、警察の実況見分に立ち会っていました。
それでも、捜査に関わった多くのみなさまにも感謝していました。
担当者が変わるたびにつらい気持ちを必死に抑えて、何回でも同じことを話しました。
私たちは長野から相模原に滞在しつづけたのですが、全く知らない土地で困っている私たちの為に弟が来てくれました。
泊まるホテルの予約、食事、いろいろな用意を引き受けてくれました。
そんな私たちに警察の方が
「絶対捕まえるから!」
と言ってくれました。
私たちもよけいな情報が外にもれて逮捕が遅くなるのを恐れて、警察に何も尋ねませんでした。
3日目、下の娘も事情聴取を受けることになり、名古屋から親戚のクルマで相模原市までやってきました。
犯人は見つからず5日目になりました。
一切の荷物を持ってきていないので一度自宅に帰りたい、と警察の方にお願いして、長野県へ帰宅することにしました。
そこに
「犯人を逮捕しました」
と連絡を受けました。
私たちは急いで相模原に引き返しました。
警察の方々に深く感謝しました。
しかし、娘のなきがらを連れて帰る許可がおりず、相模原において帰ることになりました。
加代子、一緒に帰ろうね。ごめん、独りぼっちにして、つらかったね。くるしかったね。
私たちが長野に帰ってから3日後のことでした。
娘を安置しているセレモニーセンターより火葬をすすめられましたが、地元でたくさんの親戚や昔からの友達に最後のお別れができるように長野県で火葬をしたいとお願いをしましたが
「それはできません」
と断られました。
娘のなきがらは、誰も知っている人のいないセレモニーセンターで、火葬にされました。
そんな時に、セレモニーセンターから、今日の火葬代金と共に今までなきがらを安置していた代金を突然請求されて、お金を払いクルマで帰りました。
姉の変わり果てた姿に、言葉も無い妹がぽとぽとと涙をこぼしました。
葬儀には驚くほどたくさんの方々が来てくれました。
みなさまがたには今もお礼状も出せずに大変心苦しく思っています。
中にはぐさっとこころに刺さる言葉もありました。
「だから早く相模原から長野に戻せばよかったのに」
と言われたり
「こども3人産んでおいてよかったね」
と言われました。
でも、加代子はたった1人のこどもなのです。
たとえ息子がいても、下の娘がいても、加代子の代わりではありません。
たとえ、きょうだいが3人いたとしても、大切な子を喪った悲しみが減るなんてことはないのです。
「あら、元気そうでよかった」
とも言われました。
それは違います。歯を食いしばって何とか立っているんです。気丈に振るまっていないと、立っていられないんです。
相手の人が無意識にかけているであろう言葉の中に、傷つけられる言葉がたくさんありました。
葬儀の2日後、私の実家の父が亡くなりました。
実家では長女としての仕事が待っていました。
被害者の遺族である、ということだけでなく、長女としての仕事をしっかりと果たさなければなりませんでした。
でも、親戚も加代子のことを知っていて、無言で肩を優しく叩くおじに、とても慰められました。
こんな中、横浜で裁判が始まりました。
私たちは裁判の為に長野県から横浜へ向かいました。
何もかも不安な私たちの為に、相模原署の方々や被害者対策室の方や『被害者支援センター』の方々がついてくださいました。
公判は全部で3回でした。
犯人を刺激しないようにと、前から2列目の傍聴席が用意されていました。
傍聴をしていくうちに耐え難い現実が明らかになり、怒りがこみあげ涙がとまらず、娘の遺影を持つ手に力が入り、爪がくいこみました。
慣れない土地で1人で一生懸命がんばっていた家族思いの加代子がどうしてこんな目にあうの?
犯人は何を考えているのか、反省しているのか全く分からない様子でした。
そんな犯人の姿に加害者側の弁護士でさえ怒りを覚えたようで、閉廷後、目が合った私たちに深くおじぎをしてくれました。
民事裁判は、不条理にも
「裁判に勝っても何もとれませんよ」
と弁護士さんに言われてあきらめました。
刑事裁判の判決は、無期懲役。
けれども弁護側は上告しました。
私は、彼には死刑になって、あの世で加代子にこころから謝罪してほしかったです。
彼は死刑になるどころか、刑務所の中で生きつづけることを保障された命であり、20数年後には社会に出てくることを知りました。
すごく虚しく悲しく、不安で恐ろしい感じがしました。
その後、執行猶予中だった犯人の身元引受人が、ただ事実を知りたいだけの私たちにひどい言葉を投げかけてきたこともありました。
娘のアパートのまわりの人たちが事件の日に、女性のうめき声を聴いていたことも知りました。
ああ、その時に110番をしていてくれたらば加代子は生きていたのかしら、と思いました。
マスコミが注目していたのを避けるために、関係者の方々の細かい気配りをしていただいて助けられました。
それでもマスコミの取材に苦しめられました。
犯人は逮捕された時から守られますが、遺族は違います。
マスコミにはお願い文を出してからは静かになりましたが、精神的にまいっていたのでよけいに疲れました。
現実を受け入れられない自分が日々が過ぎてもいます。
こころと体がすごく不安定になっています。
ふつうに暮らせることがどんなに奇跡であるか、どんなに幸せであるか、加代子に教えられました。
今日の講演のお話をいただいた時、すごく迷いました。
被害者の中には社会的活動にとりくむ方もいらっしゃるようですが、今の私にはムリです。
しかし主催関係者の方から「ありのままのきもちを知っていただくことが大事なんですよ」と言われて引き受けることに決めました。
被害者対策室の方々や被害者支援センターの方々から細かい気配りと共に、心温まるお手紙をいただきました。
これがありのままの私の気持ちです。
加代子に、「母さんもがんばったよ」と前を向いて生きていけたらと思っています。
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お2人のお話は、どちらも涙なしには聴けないものでした。
フジノはそれを堪えてメモをキーボードに打ちまくって
「冷静に。この悲痛の叫びから政策としてできることを見つけ出せ!」
と、必死に考えていたのですが、
場内は本当にすすり泣きに満ちていて、悲しみでいっぱいでした。
本当に、つらく悲しいお話でした。
そして、被害者のご家族の気持ちを無視してすすめられていくあらゆること
(例えば、火葬も身近な地域で行なえない、無念ながら火葬をしたその日に安置代など90万円を即日請求されたことなど。何故、後日ではいけないのか?何故、被害者が支払うのか?)
とても怒りを強く感じました。
犯罪の被害者やご家族は、犯罪そのものだけでなく、マスコミや決められたルールのせいで2重にも3重にも苦しめられている現実があります。
これを変えるのが政治の仕事だ、と改めて感じました。
(次の記事に続きます)