父のお見舞いへ
今日は夕方から父のお見舞いへ。
昨年も今年も、お見舞いが1年間の最後の仕事だ。「政治家」としても「個人」としても、僕が1年の最後にやるべきことは、やはり父に会うことこそがふさわしいと感じる。
大晦日の夕方の病院は、すでに玄関やロビーの照明も落とされていて薄暗く、病棟に入っても、僕の他にはお見舞い客もいない。
夜勤との引継ぎが行なわれているナースステーションだけが活気づいていて、あとは病院全体がひたすら静寂に包まれている。
ナースステーションの隣の病室に、父はいる。
中に入って父のベットへ進む。顔を父のそばに近づけて
「父さん、英明です」
と声をかけると、こころなしか父は目を大きく開いたように僕は感じる。
「感じる」と書いたけれど、実際には家族として「確信」している。僕が来ると父はそれをハッキリと分かっているし、態度にも表している。
父は、8年間にわたって寝たきりの植物状態だ。
医学的には、視力も聴力も無い状態と言われている。
けれども確実に父は生きているし、そこには意思を感じとることができる。
僕が『病室の中』で父と向き合う時間は、とても短い。
ふだんは2週間に1回くらい。特に僕がひどく体調を崩してしまった今年の後半は、3ヶ月ぶりの再会になってしまった。
けれども、『病室の外』で父と向き合う時間は、とても多い。
父のおかげで出会うことができたあらゆる社会的な課題を通して、確実に毎日何時間も、いつも父のことを考えている。
2年前の選挙で、選挙公報に僕はこう記した。
特別養護老人ホームは足りず、いくら待っても入所できません。療養病棟の入院費用はあまりにも高く、家族はみな疲れ果ててダウン寸前です。
こんな悩みを誰もが抱えています。生きることに希望が持てない、つらく厳しい事態です。
柔道・剣道ともに有段者で体格も良く、お酒が飲むのが大好きな亭主関白の九州男児で、定年退職したばかりの父。
そのあまりに突然の変化に、僕は心身ともに疲弊したし、経済的にも本当に苦しい日々を過ごした。毎月の給料では入院費用を支払いきれず、貯金を取り崩し、貯金が無くなった後は借金をして何とか入院費用を工面した。
長男として父を支える僕の苦しみの一方で、配偶者を突然かつ実質的に失った母の悲しみ、そして、植物状態の為に自らの意思を伝えることができない父自身のこころと体の苦しみに思いを馳せない日は無かった。
いつもいつも父のことを考え続けた。
僕は思春期のかなり早い時期から実存主義の哲学を学んで『生きる』ことの意味と向き合ってきたし、大学時代から社会人になっても『死生学』を学んできた。だから、一般の人々よりは多く『生と死』について向き合ってきたはずだった。
しかし、やはり目の前の肉親の身に起こる出来事の数々は、そうした学問的な知識や哲学的な思索を全く超えていた。とても苦しい日々だった。
だから、選挙公報に記した苦しみの気持ちは、嘘偽りの無い本音の吐露だ。
けれども、その文章の続きに、僕はこう記した。
僕が政治家になる前年、横須賀の自殺数は過去最悪でした。
僕はゼロから自殺対策を作りあげてきましたが、ついに昨年、過去9年間で最も犠牲者数を減らすことができました。
政治の力で、必ず現実は変えることができるのです。
これからも僕は変えていきます。
先ほどのネガティブな言葉とは全く逆で、ポジティブな言葉だ。
でも、これはカラ元気ではない。
僕が深く確信している本音の想いだ。苦しい現実を体験する中で迷いながら少しずつ獲得してきた強さだ。
続く苦しみの中でも、僕は父からいつも大切なことをたくさん教えてもらった。< 父と同じ苦しみを味わっている人々が全国に凄まじい数で存在している現実。同じく、家族としての悲しみや苦しみも、たくさんの人々が僕と同じように感じている現実。 さらに、その苦しみの多くは、政治・行政が法律や制度を変えることで、本来であれば感じなくて済むはずの苦しみであるという現実。 そして、僕はその現実を変えることできる立場にあるという現実。 だから、僕は必死に取り組んできた。 国の審議会を何年も追い続けた。国の法律が変わるように国会議員にも働きかけた。法律が変わった後は、それが自分の暮らすまちで制度として機能するように、議会で取り上げ続けた。
こうして、いくつもの現実を変えることができた。
例えば、横須賀の高齢者保健医療福祉で2つの挙げてみると・・・
これまでは、父のように『胃ろう』をしていたり『たんの吸引』が必要な方々(医療的ケアが必要な高齢者)は、特別養護老人ホームに入所させてもらうことができなかった。
けれども、今では『介護職』による『医療的ケア』が実施できるようになり、『胃ろう』『たんの吸引』が必要な高齢者であっても、特別養護老人ホームに受け入れてもらえるように変わってきたのだ。
また、横須賀市内には夜間に対応してくれる(24時間対応できる)事業所が存在していなかった。
だから、父のように『胃ろう』をしていたり『たんの吸引』が必要な方々は、夜中から早朝にかけては家族がひたすら医療的ケアをしたり介護をしなければならなかった。十分な睡眠もとれない日々が永続的に続くことは家族の心身を疲弊させたし、虐待にもつながりうる状況で、本当に大変だった。
でも、ついに24時間対応できる『定期巡回・随時対応型訪問介護看護』がスタートする。
これによって、医療的ケアが必要な方々が自宅で暮らすことが、今よりも少し暮らしやすくなるのだ。
傲慢に思われてもいいから、僕は本音を書こうと思う。
横須賀市の高齢者福祉は、僕が政治家でなかったら、ここまで早く変わらなかった。
それはつまり、父が倒れたおかげなのだ。
父の犠牲があったおかげで僕はこうした問題にこころの底から目覚めて、そして全身全霊をかけて仕事をした。もちろん、たくさんの方々のご尽力のおかげなのは当然のことで、深く感謝している。
それでもなお、究極的には、父の犠牲がきっかけで横須賀の厳しい現実が変えることができつつある、と言っても間違いではないと僕は確信している。
そして、2025年に向けて、問題は山積みだ。さらにそれは2050年まで続いていく。
僕は、改善することができた課題を父に報告して、また取り組み中の政策やこれからやらねばならないことを父に聴いてもらって、山積みの問題と闘っていく力にさせてもらい続けるのだと思う。
拘縮しつつある父の姿は決してカッコいいものでは無いし、喉の奥にたんがからんでゼーゼーという音があちこちから聞こえる病室で過ごすのは気持ちが滅入る。
でも、こうして父に会うたびにたくさんのことを学ばせてもらってきた。そんな父の存在を僕は誇りに感じている。
大晦日の病室で、父に誓う。
「来年も僕は父さんの為にがんばるよ」
それは、父さんと同じ状況にある全国の本人と家族の為にがんばることだ。
だから僕は、これからもずっとがんばり続ける。