6月の市長選挙に立候補を予定している3人に順番にお会いして頂き、お話を伺ってきました。
今日は、ついに最後の1人である吉田雄人さん(現・横須賀市長)にお会いしました。
そこで感じたことを記します。
現職の市長と市議会議員である前に、長年の戦友であり、大切な後輩
今日は、3年半以上ぶりに、僕は『政治家フジノ』という公人の肩書きを外して、『藤野英明』という私人として、吉田雄人さんと向き合いました。
このブログを読んで下さっている方々は、この11年の間に大きく変化しました。
かつては、僕の同級生や長年つきあいのある方々を中心に、いち私人としての僕を立候補前から知っている方々がメインでした。
それが今では、このブログを読んでいる方々の半数以上が、政治家になった後のフジノしか知りません。
フジノを知ったきっかけというのも、「自殺対策」「性的な多様性を保障する政策」「脱原発」「給食食材の放射性物質対策」などを通して知った、という方々が大半を占めるようになりました。
特に「3.11後に初めてフジノの存在を知った」という方々がとても増えました。
そうしたみなさまは「吉田市長」と「政治家フジノ」が、政治家になる以前から20年という長年の関わりがあることも全くご存じないと思います。
そこで、改めて(僕の側から見た)これまでについて少し記したいと思います。
そもそも、フジノ(39才)と吉田市長(37才)は、神奈川県立横須賀高校の先輩・後輩にあたります。
僕が高校45期生、吉田市長が高校46期生。
当時、僕は17才。雄人は16才。
1学年しか違わず、現役の高校生時代からお互いに知っていました。
だから今でも僕は、つい当時からの親しみをこめて「雄人」と呼びすてにしてしまいます。
当時から、接点はいろいろありました。
例えば、高校の文化祭の実行委員会。僕が2年生代表、雄人が1年生代表を勤めました。
また、体育祭では、各学年から1クラスずつで3学年で1つのカラーを作るのですが、僕と雄人のクラスとは同じカラー(緑軍)でした。
20年以上前からお互いに知りあいであるだけでなく、共通の知人も多いです。
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大学も、同じく早稲田大学でした。
僕は93年入学、教育学部。雄人は94年入学、政治経済学部です。
ふだん接点は無いものの、同じ早稲田キャンパス(当時は「本キャン」と呼んでました)ですから、見かけることもありました。
また、渋谷駅で偶然に再会したりすると、お互いの近況について話したりしました。
大学時代、僕はアメリカへ。彼はイギリスへ。それぞれに短期留学をしています。
卒業後は、それぞれ民間企業に勤めていました。
僕は映画会社、彼はコンサルティングファームです。
同じ時代の空気をともに吸って生きてきました。
雄人と僕は、高校・大学が同じ、年齢も1才しか違わない。街頭演説を中心とする活動や、若さや同期での当選。
こうしたキャリアパスに共通点が多いことから、現在に至るまで、市民のみなさまから「吉田・フジノ」と並べて言及されることが多いです。
でも、実際の2人は、かなり対象的な在り方でした。
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11年前(2002年)の夏、彼が初めて横須賀市議会議員選挙に立候補する為に、逗子から引っ越してきました。
今では信じられないと思うのですが、雄人は僕に「選挙の応援をしてほしい」と頼んできました。
僕は、雄人に対して
「お前の幸せは、本当に政治家になることなのか?それで良いのか?」
と、強く引き止めました。とても良く憶えています。
雄人は高校時代から「総理大臣になりたい」と言っていたのですが、僕は「政治家なんかになることは間違っている」と感じていました。
だから、僕は、彼が政治家なんかを目指すよりも、ひとりの個人として、ハッピーな人生を送ってほしいと素直に願ったものでした。
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それにも関わらず…。
とても数奇な運命から、そのわずか数カ月後(2003年1月31日)に僕自身が政治家に転職をする決意をしました。
この僕の決心も、実は、雄人が僕にかけてくれた言葉が強く背中を押してくれたのでした。
公職選挙法などを全く知らない無勝手流の僕に対して、時にアドバイスをくれたのも雄人でした。
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こうして2003年4月の統一地方選挙で、2人とも市議会議員に当選しました。
それから6年の間に、雄人は、政界の階段を2段抜かし3段抜かしでどんどん登っていきました。
彼は、後援会組織をしっかりと固めて、学生インターンを募集してシンパを増やし、街頭演説を1000日も続けるなど地歩を固めていきました。
市内のあらゆる交差点などの人目につく場所には、彼の看板が付けられています。
選挙になれば、日に焼けた姿で自転車に乗りまくる。
そして自転車と同時に、選挙カーもしっかりと活用していました。
イメージ戦略・空中戦と同時に、地べたをはうようなドブ板選挙・地上戦も雄人は得意でした。
真夜中の終電まで駅に立ってお辞儀を繰り返す、精力的な選挙でした。
政治家に当選後は、4年間の任期で4つの常任委員会を全て回りました。
会派(ニューウイングよこすか)にも所属したり、離脱したり。
また、他のまちの若手政治家と積極的に交流をして、他のまちで選挙があればすぐに飛んでいってお互いの選挙を支援しあったりというのが雄人のスタイルでした。
かたや僕は、政治家でありながら政治家であることにいつも違和感があり、自分が政治家であることを嫌い続けました。
後援会は作りませんでした。
まちなかにも、1つも看板を出していません。
街頭演説に立つことはあっても、政治家になる前からパニック障がいとウツ病もちの為、人前で話すことは今に至るまで嫌いなまま。
選挙では「選挙カーは絶対に嫌だ」と、僕は1度も使ったことはありません。
しかも、「雄人が自転車に乗るのはパフォーマンスだから絶対に間違っている」と公言してきました。
だって、『自転車に乗ってまちを走り回ること』は政治家の仕事ですか?
ひたすら政策を訴えて市民のみなさまに信を問うのが政治家の本分でしょう?
彼の選挙のやり方が嫌いでしたので、僕はひたすら自分の足(徒歩)で市内を歩いてはひたすらに政策を訴えて回りました。
体力抜群の雄人とは違い、精神疾患もちで体力の無い僕は、すぐに過労で倒れてばかりでした。
心理学を専攻していた学部生時代から大学院進学をすすめられていたように、僕はもとから研究者気質の性格でした。
政治家に当選した後も、政局は大キライで、ひたすら保健・医療・福祉の政策の為だけに働くことを望みました。
資料を読み漁る方が性格にあっていました。
派閥に属することも嫌い、無所属でひとりきりで仕事だけに専念することを好んできました。
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8年前、『政治家としての父』と慕っていた木村正孝さんが市長選挙に立候補しました。
雄人はこの時すでに市長選挙立候補の決意をしていましたが、みんなで「まだ早い」と必死に止めました。
「将来、必ず良き政治家に成長するであろう『プリンス』である雄人を、みすみす落選させるなんてできない」
というのが、木村さんや僕の想いでした。
木村さんが立候補してくれたのは、あくまでも僕の中では「雄人を守る為に代わりに立候補してくれたのだ」と受け止めています。
2005年市長選挙、木村さんは落選しました。
政治家としてたくさんの市民の方々から厚い信頼を受けていた木村さんの、政治家人生を絶つことになってしまいました。
この時、フジノは「どんなことをしてでもオヤジ(=木村さん)の仇を取る」と誓いました。
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そして4年前(2009年)、横須賀市長選挙が行なわれました。
今回は、もはや雄人が立候補するしかありませんでした。
フジノは全てを賭けて、吉田雄人候補を応援する決心をしました。
「吉田候補が市長選挙に落選したら、僕も市議会議員を辞職します」
と宣言しました。
雄人が市長になる為に、僕は全てを捨てる決意をしました。
「新しい横須賀」を実現する為であると同時に、政治家としてのオヤジの仇を取る為であり、大切な後輩(=雄人)をどんなことをしてでも守る為でした。
こうして、2009年の市長選挙に突入しました。
当時は「現職が絶対に有利」「絶対に当選不可能」と言われていた吉田候補は、奇跡の逆転当選を果たしました。
市長選挙終了後。
僕は、公人に戻りました。
フジノは「市長が誰であろうと僕は是々非々で厳しく臨む」と市民のみなさまにあらかじめ約束してきました。
その言葉どおり、歴代市長に向きあってきたのと同じように、吉田市長には、フジノこそが誰よりも厳しい追及をしてきました。
プライベートでは雄人の結婚式にまで呼ばれている間柄ですが、市政という41万人のいのちを預かる場において、とにかく僕は私情をはさんではいけないと自分を強く戒めました。
先輩・後輩の『情』の部分で流されてしまわない為に、彼が市長に就任してからは公の場以外では一切接点を持たないようにしてきました。
つまり、年4回の市議会だけが2人の接点です。
その場での真剣勝負の質疑のやりとりだけが、フジノが吉田市長と交わる唯一の接点です。
来賓などで招かれたり、自殺対策街頭キャンペーンなどで一緒に活動する時であっても、第三者が立ち会って居る場だけでしか一切の会話をしないようにしてきました。
市議会議員として、市民のみなさまに開かれた場で無ければ、市長とは個人的な会話は徹底的に慎んできました。
つまり、今日に至るまで3年半以上、私的な会話をしたことはありません。
これが僕の側から見た「政治家として10年間、個人としては20年以上にわたる藤野英明と吉田雄人との関わり」です。
吉田雄人はフジノにとって、市長と市議会議員である前に、同じ時代を同じ空気を吸って生きてきた大切な同世代のひとりなのです。
そして、僕にとってはどんなことがあっても、20年来の大切な後輩なのです。
誰がなんと言おうとも、僕たち2人にしか分かりあえない固いつながりが存在しています。
適当な言葉が見つからないのですが、『信頼感』や『絆』のようなものでしょうか。けれども、もっと強いつながりです。
だから、フジノが市議会議員としてどれだけ激しく厳しく吉田市長を追及したとしても、それによって2人の20年以上のつながりが消えることは無かったと僕は信じています。
こうしたことを知らない方々は
「フジノさんは吉田市長のこと大キライなんですよね?」
と真面目な顔で尋ねてきたりします。
僕は、笑い飛ばしています。
僕は、2003年に政治家に転職することを決意した時、こころの深い底の部分で信じている希望ある未来を実現することを誓いました。
それ以来、「好き」「嫌い」といった感情のレベルで『まちの未来』『政治』『市長』などを考えたことは全くありません。
政治家として雄人と僕がお互いに目指した夢、『新しい横須賀』の実現を市長としての雄人の取り組みがダメな時、大切な後輩に檄を飛ばすのが先輩の義務ですし、このまちの為に働く公人として全力で批判をしてきました。
それができるのは、20年間のつながり、同じ時代を生きてきた戦友、と雄人のことを感じているからです。
市長選挙が近づいてきて、いろいろな人が僕に近づいてきては(僕からすると信じられないような)『不仲説』みたいなものをニヤニヤしながら話しかけてきます。
そういった全てのことを、僕は否定します。
長い長い前置きになりましたが、まずこのことを市民のみなさまに改めてお伝えすべきだとフジノは感じました。
(その2へ続く)