戦後アメリカへ渡った日本人戦争花嫁の苦難を知りました/市民平和のつどい2015

戦後70年。戦争体験者は激減し、戦後世代が平和を希求する想いを持ち続けていただくことは、本当はとても難しい

昨年2015年で、戦後70年となりました。

平和を希求する横須賀市では1989年に『核兵器廃絶・平和都市宣言』を行ない、毎年『市民平和のつどい』を開催してきました。

「市民平和のつどい」会場にて
「市民平和のつどい」会場にて


市民のみなさまに日頃から平和について考えていただきたいけれど、それは同時にとても難しいことであるのも事実です。

例え恒久平和を求めることがどれほど大切で素晴らしいことであっても、毎日の生活が厳しく目の前の出来事を乗り越えていくので精一杯の方々に「毎日考えて下さい」というのは現実的ではない、とフジノは感じています。

そこで、せめて横須賀市が年1回開催する『市民平和のつどい』に参加していただいて「きっかけにしていただけたら」と願っています。

試行錯誤を繰り返してきた「市民平和のつどい」、今年度は「直球どまんなか」の企画です

『市民平和のつどい』の事業目的は、市の予算書などでは以下のように記されています。

市民への平和思想の普及と平和に関する意識の高揚を図る為

市の国際交流課では、毎年いろいろな工夫を重ねて『市民平和のつどい』を開催してきました。

参加者数を増やしたい、平和への意識を高めたい、そう願ってもなかなかカンタンにはいきません。

これまでも様々な企画を行なってきて、さらに開催時期を工夫したり、対象となる年齢層を変えるなど、取り組みを進めてきました。

過去には、被曝ピアノ(実際に被爆をしたピアノ)を横須賀に運んで市民の方々に弾いていただいたり、被爆ピアノに関する絵本の朗読等を行なったことがあります。

また、フェアトレードを扱ったドキュメンタリー映画『バレンタイン一揆』の上映を行なったこともありました。映画は女の子たちが主人公ですし、若い世代の市民の方々にぜひ参加してほしいという願いからでした。

けれども今年は、あえて『王道』に戻ってきました。

こちらが今回のプログラムです。

「市民平和のつどい」のチラシ
「市民平和のつどい」のチラシ


戦争を実際に体験した世代のみなさまがご高齢になっておられる今、その生の体験を聴かせていただくことはとても貴重な機会です。

  • 私の戦争体験
    「内地・小豆島陸軍船舶所」神奈川県遺族会・金子金次さん
    「ソ満国境からシベリアへ」NPO法人横須賀国際交流協会会員・大屋宣美さん
  • ビデオ上映と制作者のお話
    「七転び八起き 日本人戦争花嫁」ルーシー・クラフトさん

今年の『市民平和のつどい』は、直球どまんなかで、戦争体験を実際の体験者の方々に語っていただく企画となりました。

戦争体験を実際の体験者に語っていただいた今回、会場は超満員になりました

会場となったヴェルクよこすか6階の会議室は、決して広くありません。

それでも満員で立ち見が出るほどでした。率直に評価して良いことだとフジノは受け止めています。

満員の会場には立ち見の方もおられました
満員の会場には立ち見の方もおられました


フジノ自身はおじいちゃん子として育ったので、農家の次男に生まれて軍隊に志願するしかなかった祖父から海軍での日々を幼い頃から聴かせてもらって育ちました。

けれども、今のこどもたちはどれだけ生の声を聴かせてもらったことがあるでしょうか。

さらに、今後生まれてくるこどもたちは、戦争体験者の言葉は書物やインターネットや映像記録でしか知ることができなくなるのでしょう。

だからこそ、戦中を生きた人々の生の声を、戦後世代の僕たちが今どれだけしっかりとたくさん吸収して平和への想いを次の世代へと繋いでいかれるかが勝負ではないかと感じています。

戦後アメリカに渡った「日本人戦争花嫁」の実態が少しずつ明らかになってきました

今回のプログラムでひとつ異色だったのは、ドキュメンタリー映画『七転び八起き 日本人戦争花嫁』の上映です。

下の予告編をまずご覧下さい。

みなさん映画に見入っておられました
みなさん映画に見入っておられました


敗戦後、進駐軍としてアメリカ軍も日本を占領しました。

『Wikipedia』によると『戦争花嫁』とは、戦時中や戦後に、こうした兵士と駐在先の住民の間で行われた結婚を指す言葉です(特に、第1次・第2次世界大戦のことを指すことが多いそうです)。

日本でもたくさんの『戦争花嫁』がうまれました。

監督でありご自身も出演されているルーシー・クラフトさん
監督でありご自身も出演されているルーシー・クラフトさん


アメリカ軍兵士たちはその任務を終えると、母国アメリカに日本人花嫁を連れて帰りました。

理想の国アメリカに期待をもって渡っていった彼女たち。

けれどもその暮らしは、想像とは大きく異なっていました。それはそうです。誰もがニューヨークやワシントンのような都会に住んでいる訳ではなく、田舎の荒れ果てた土地から出兵してきた人たちも多かったからです。

アメリカでは敗戦国・日本から来た女性たちに対する扱いは、田舎でも都会でも厳しいものがありました。

そこで生きていくことに困難を感じて、離婚をして人も多くいます。

それでも多くの女性たちはその苦労を語ることはこれまで全くありませんでした。

お話しするクラフトさん
お話しするクラフトさん


実は今回この作品を制作したクラフトさんご自身が、『戦争花嫁』の母を持つハーフ(今はハーフという呼び方はネガティブな単語ですが、より適切な単語が見当たらないのでお許し下さい)です。日本語も流暢に話します。

クラフトさんご自身が『戦争花嫁』のもとを訪れていく旅がまさに映画の核なのですが、それはご自身のルーツをたどる旅でもありました。

フジノ自身、『戦争花嫁』のご苦労は一般論としては聴いてきましたが、一次資料として生の声をドキュメンタリー映画としてフィルムにしたものは初めて観ました。とても貴重な体験でした。

クラフトさんはこれからもさらに多くの声を訪ねていき、新たな作品にしていく予定とのことでした。

横須賀市の平和に関する事業は、実際のところ、ごくわずかしかありません。

平和が続いている時には、平和教育の必要性は低く感じられてしまうものなのでしょう。横須賀市にとって、この『つどい』や国際平和の標語募集やポスター募集くらいしか取り組みがありません。

だから、この『市民平和のつどい』をフジノは絶対に無くさせません。

昨年は戦後70年でしたが、戦後が100年続くまで、ずっと日本に平和が続くように努力していきます。

後日談

翌日の神奈川新聞が報じてくれました。

2016年2月7日・神奈川新聞より
2016年2月7日・神奈川新聞より


ありがとうございます。

戦争花嫁の苦難をお聞きしました・市民平和のつどい

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