今日の本会議で正式に「教育福祉常任委員会」に就任しました
1週間前のブログ記事で、2017年度もフジノは教育福祉常任委員会に所属することが内々に決定した、と記しました。
これはあくまでも無会派に割りふられた委員会ポストを、無会派の4名でうちうちに話し合いをしただけです。
実際には、今日の本会議で全議員の了解を得て初めて『正式決定』となります。
そして本会議で、正式に決定となりました。
4つの常任委員会それぞれの『就任者リスト』は上の通りです。
悩みに悩んだ末に家族の言葉に背中を押されました
『社会保障』のフジノ
『福祉政策』のフジノ
『医療政策』のフジノ
『健康政策』のフジノ
『教育』のフジノ
と、あえて14年間自ら名乗り続けてきました。
実際に、自殺対策だけでなく、高齢者保健医療福祉、こども家庭福祉、あらゆる分野で成果を上げて、横須賀の政策を引っ張ってきた自負もあります。
ずっと教育福祉常任委員会に所属してきたことに対して、こころない人々から『族議員』と誹謗中傷を受けたこともあります。
それでもあえて教育福祉常任委員会にフジノがこだわってきたのは、「政治家になった目的以外のことは一切やりたくない」という強い想いからです。
いのちを守りたくて、好きな仕事(会社)を辞めて、市議会議員に転職しました。
今でこそなんとなくベテランのように思われていますが、初立候補の時のフジノは単なる茶髪のあんちゃんで泡沫候補でした。誰もが「フジノは落選する」と言いました。
全てを捨てて、この仕事に転職しました。
だから、「いのちを守る、その目的だけの為に一直線で生きていきたい」、そう思って生きてきました。
他の3つの常任委員会も市民のみなさまの暮らしに直結しています。すごく大切です。
ただ、他の3つの常任委員会で扱っている事柄の大半が、フジノが『人生を捧げると決めた事柄』とは、『距離』があります。回り道をしている時間は僕にはありませんでした。
けれども2017年度は、教育福祉常任委員会を離れようと思っていました。
実は、フジノはとても体調を崩しています。
今年の予算議会での委員会最終日(2017年3月14日)、政治家人生で初めて委員会を欠席しました。丸一日、自分がいないままに教育福祉常任委員会が始まって、終わりました。ショックでした。
これまではひどいめまいがして委員会をいったん退室しても、控室で休んですぐに戻るなど、どんなことがあっても出席し続けてきました。
けれども、丸一日初めて委員会を休まざるを得ない状況に追い込まれて、ハッキリ自覚させられました。自分の体も心も限界に近付いているのだと。
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1月から家族がバタバタと体調を崩していき、入退院を繰り返すようになりました。
家族が入院した経験を持つ方でなければ分からないと思いますが、仕事をしながら家族の入院のサポートをすることはとても大変です。
市内のひとりの入院でも大変なのに、バラバラのまちに暮らす家族がそれぞれにピンチに陥っていました。
もちろん、フジノは全力で仕事を続けながら、家族を守る為に奔走しました。
そして、時間も、体力も、お金も、少しずつ失われていきました。
そんな中、昨年から決めていた自分自身の手術を4月に行ないました。
残念ながら予後が悪くて、喉の炎症がきっかけで、その手術跡から雑菌が入ってしまいました。
手術は成功したのですが別の病気になってしまい、「声を出してはいけない」と言われて、毎日たくさんの薬をのまねばならなくなりました。
(そうはいっても、街頭で大声を出さなければならないのも僕の仕事のひとつですから、全く治りません。つらいです)
フジノが最近はいつもマスクをしているのをみなさんご覧になったと思います。
「これ以上、菌が入ったらダメだから」というドクターからの強い指示を受けているからなのです。
この11年、どんなことがあっても休まなかったカフェトークも、お休みさせてもらっています。
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こうして迎えた、年度がわりとともに行なわれる常任委員会のメンバーチェンジ。
4つの常任委員会の中で、最も分量が多く、審議の時間も多く、したがって準備の量もすさまじく多いのが教育福祉常任委員会です。
「今の自分では、満足いく質の高い仕事ができないかもしれない」
「自分以外の方が教育福祉常任委員会に所属なさった方が、市民のみなさまの利益になるかもしれない」
「市民の為に大切なことに変わりは無いのだから、少し心身を休める為にも、負担がやや少ない他の委員会に所属しても良いのではないか」
こうした想いが何度も去来しました。
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しかし、そんな僕に家族が言ったのです。
「私たちの入院で英明に迷惑をかけているけれど、この苦しい日々を体験している今こそ、あなたは苦しい想いをしている市民の気持ちが誰よりも理解できるはず。だから、あえて教育福祉常任委員会になるべきじゃないの?」
と。
なんて酷な言葉だ、と思いました。
僕はあなたたちを守る為に、時間の作れないこの仕事を辞めてでもケアに全力を尽くそうと悩んでいる時なのに。
教育福祉常任委員会に所属すれば、きっと僕は全力を尽くすだろう。
そうしたら、あなたたちの為に動く時間はますます減ってしまうのに。
確かに、大切な元恋人が命を失った時、僕は全力で自殺対策を作った。
確かに、父が12年間植物状態で入院していた時、僕はこのまちの高齢者保健医療福祉を変えようと全身全霊をかけた。
いくつもの、家族の悲しみ、つらさ、そしてそれに接した時の自分の胸の痛みは、政治家としての僕を強く突き動かしてきた。
けれど...。
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結局、家族の言葉が僕の背中を押しました。
僕は、あえて最も過酷な教育福祉常任委員会に所属することを決意しました。
僕の家族が苦しんでいるように、多くの市民の方々が苦しんでいることを僕は知っています。
通院や入院の現場で、たくさんの声を僕は聴いてきたし、目の前でたくさんの涙をみつめてきました。
僕のことを「市議だ」と気づいた方々は僕が家族のお見舞い中であっても、その想いをぶつけてきます。それはとても苦しいことです。自分のことで精いっぱいなのに、さらに他の方の想いも背負うことは。
しかし、僕はプライベートとパブリックを使い分けることができません。
例え、市議だと気づかれなくとも、闘病中の方々の姿を目の当たりにするたびに、帰るところが無い方の為にMSWさんが必死に駆け回っている姿をみるたびに、親御さんのお見舞いに来た他県のこどもたちがどうすることもできなくて嘆いている姿をみるたびに、僕の頭は政治家として必死に解決策を考えています。
もはや、逃げている場合では無い、と分かりました。
もしかしたら僕は今年、途中で倒れてしまうかもしれません。複数の家族のケアと、仕事とを両立できないかもしれません。
そもそも僕自身が精神疾患もちで、他の健康な方々と比較して圧倒的に心身が弱いという前提もあります(根性だけは負けないけれど)。
それでも、いのちを守る為に、死に物狂いで働いてみせようと決めました。
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初当選以来、いつだって気を緩めたことはありません。
まわりが言うほど「族議員」でもなければ、ベテランといっても年数が増えただけです。
社会保障・社会福祉にはいつも新たな課題が現れるので、いつだって初心者マークで新たな課題について文献を読み漁り、生の声を聴かせていただく為に走り回っているのです。
保健医療福祉、教育、目の前に起こる出来事は全てが『個別』で『新しい出来事』で、パターン化できません。
だから僕は、いつも1年目なのです。市議会議員15年目のキャリアで14回目の教育福祉常任委員会への所属ですが、いつだっていつも1年目なのです。
いつになってもベテランになんかなれる分野ではありません。だから、新人のまま必死に働いているのです。
いろいろなことを記しましたが、とにかく僕は、2017年度も教育福祉常任委員会に所属しました。
家族の言葉に背中を押されて。
その家族のいのちが失われるかもしれないにもかかわらず。
とてもつらい職業に就いたな、と改めて思います。
けれども就いた以上は、全身全霊をかけて働きます。