執筆日・2014年12月20日
98年就職組=「同期」と勝手に励まされていました
松崎ナオさんがメジャーデビューした1998年、フジノは東宝株式会社に就職しました。
だから、松崎ナオさんとは年齢が2才離れているのですが、ずっと『仕事の同期』というイメージをフジノは持ち続けてきました。
ナオさんの歌との出会いは、偶然でした。
フジノの同期社員が松崎ナオさんと親しくて、プロモーション用のパイロット版CDをくれたのです。
ふだん、他人からもらったCDはほとんど聴かないのですが、ナオさんだけは違いました。
聴いた途端に、まさに衝撃を受けました。
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それ以来、彼女の歌は、フジノの人生にとって不可欠の音楽になりました。
フジノは有楽町に務めていたので都内のライブには全て参加しました。
当時のナオさんは、テレビドラマ版の『リング』で歌が使われたり出演したり、熱狂的なファンもたくさんいました。
ミクシィにコミュニティがあって、追っかけ情報とかも書かれていました。
フジノは熱心に歌を聴くファンではあったのですが、追っかけファンみたいな人たちは苦手で、いつも距離を置いていました。
何故なら、ナオさんの歌はとても力強く聴こえるのですが、実際にはその歌詞もメロディーもとても繊細で、何よりもナオさん自身がメジャーの世界に居る自分を居心地悪く感じているように見えたからです。
僕は『彼女の歌う歌』が好きなのだ、と感じてきました。
「居心地の悪そうな芸能界の中でも彼女が必死に羽ばたこうともがき続けるならば、映画業界でおれも頑張り続けよう」と勝手に励まされていました。
ずっと、フジノには『秘かな野望』がありました。
いつかフジノが東宝で担当する映画で、ナオさんの歌をエンドロールとともに流したい。
「公私混同ではなく、人生を真正面から撮った映画にはナオさんの歌は絶対に合う、だから使わせてほしい」
それが東宝在籍時のフジノの秘かな野望でした。
2002年、ナオさんはメジャーを離れ、フジノは大切な人を喪いました
彼女の歌う歌はいつもかけがえの無い存在であり続けました。
特に、2002年に元恋人を亡くしてからの数年間は、ナオさんの歌が無ければフジノは生きていくことができなかったと思います。
2002年、ナオさんはメジャーデビューしたエピックを離れました。
上の写真は、2006年7月、横須賀でライブをして下さった時の写真です。
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2003年、フジノは東宝を退職して、政治家に転職をしました。
同じく2003年、ナオさんはインディーズをメインの活動の場に移しました。
単なる偶然に過ぎないのですが、ナオさんも転機を迎えたことがなんだかフジノにとっては親近感が強くなるきっかけになりました。
僕は、永久に彼女の歌を聴き続けると思います
こうして、気がつけば早いもので、ファンになって16~17年くらいが経ちました。
フジノが東宝在籍時に抱いた野望は、自らの手では実現できませんでした。
でも僕のかわりにNHKのディレクターがその野望を果たしてくれました。
NHK『ドキュメント72時間』という素晴らしいドキュメンタリーの主題歌としてナオさんの歌(川べりの家)が使われています。
かつてフジノが東宝在籍時に描いた夢のとおり、いろいろな立場のひとびとの人生を真正面から扱ったドキュメンタリーには、ナオさんの歌がまさにぴったりでした。
悔しいけど、サンキュー、NHKのディレクターさん。
2011.3.11以降
2011.3.11、フジノも大きな転機を迎えました。脱原発の活動に、身を投じるようになりました。
もともとナオさんはライブツアーで東北に行っていましたが、震災後、意識して東北にライブに行く機会が増えたように感じます(この話題をお話したことは無いのですが、きっとナオさんは望んでそうしているのだと思います)。
かつて、忌野清志郎さんはナオさんにギターをプレゼントしました。
音楽評論家は誰も言わないけれど、フジノはナオさんの中に忌野さんの姿とかぶるものを時々感じます。
ナオさんはライブの時に堂々とこうマイクで述べてから、歌い始める時があります。
「脱原発の歌を歌います」と。
多くのアーティストは、3.11の後、自らの態度を曖昧なままにしています。
でも、ナオさんはずっと逃げずに向き合っている数少ないアーティストのひとりです。
今も彼女の歌は、フジノの人生にとって無くてはならないものです。
CDも聴きますが、ナオさんはライブのたびに歌の演奏が全く毎回違います。だから、何百回足を運んでも、毎回全てが違うのです。
ファンとして何十年が経っても、いつも驚きと衝撃がこころを突き刺します。
松崎ナオさんが歌い続ける限り、フジノも頑張り続けられるといつも感じます。
ありがとう、ナオさん。