まちの政治家は、こんなことしてます |
2005年11月21日(月)のフジノ | ||||||
● 病院と医者を選ぶことの大切さ 今日は、数ヶ月ぶりに 父さんのお見舞いに行くことができました。 僕の父が現在入院している病院は ドクターをはじめ、看護師さんも理学療法士さんもみな親切で なかなかお見舞いに行かれなくても 電話で父の様子を尋ねると嫌がらずに教えてくれます。 とても良い病院だと思います。 少しだけ体重が戻って 少しだけかつての面影が戻りました。 僕は今でも時々、何かがあると 「これを父さんに話さねば」 と思ってしまうくらいに 父の存在がとても大きいです。 久しぶりに会うことができた植物状態の父の姿を見つめながら、 改めて僕は哀しさと怒りでいっぱいになりました。 その怒りは『自分自身』と『転院する前の病院』と 『かつての主治医』に対する憎悪です。
家族と話し合った結果、 同じように苦しんでいる人やご家族がたくさんいる中、 僕たちがこの父の現実の姿を伝えることは意味があるだろう という結論になりました。 それでも、例えすっかり変わってしまった父の姿だとはいえども、 少しでもまともな写真を選んでしまうのが 家族の性なのかもしれません。 いずれにしても、これが今日の父のリアルな姿です。 ------------------------------------------------------ 僕は、この1年間の体験から どうしてもみなさんに伝えたいことがあります。
僕の父は、昨年12月8日の朝、 片手のしびれを感じて 自分自身の足で 自宅のそばにある、某総合病院に行きました。 その場で「じゃあ、入院して」と主治医に言われて 朝9時40分に入院しました。 入院を知らされた僕は、視察を終えて杉並区から戻って 14時過ぎにお見舞いに行きました。 それまで、1度もドクターは 父の様子を見に来てくれていませんでした。 だから、何も検査も行なっていません。 父はその時、立ち上がることもできましたし、 会話をすることもふつうにできました。 夜に放送される刑事ドラマ『相棒』を ビデオに録画しておいてほしい、と僕に頼んだりしました。 それが少しずつ手にしびれを感じ、 体に麻痺が起こり始めて ついにはメモが取れなくなりました。 やがて、少しずつ父は話しづらそうになりました。 僕は、それを目の前でずっと見ていて 何度もナースコールを押しては 「父の様子が悪くなってきたからドクターを呼んで下さい」 と頼みました。 けれども、どの看護師も ドクターを呼んでくれませんでした。 夕方17時頃に来てくれた たった1人の看護師さんだけが親切で 5分間ほどベッドサイドに居つづけてくれました。 そして、父の様子が 分刻みに悪化していく様子を見て 血相を変えて 「ドクターを呼びますから!」 と大急ぎで呼んでくれました。 しかし、神経内科の医師はなかなか来てくれませんでした。 ついに父は話すことが無くなり、意識を失いました。 頭蓋骨の中が血だらけになり、 中脳以外は損傷がひどく、自発呼吸はしているものの、 意識は戻りません。 それ以来、今日に至るまで 父は植物状態です。
----------------------------------------------------- まだ若いこの主治医(神経内科)には、 これまでも僕は納得がいっていませんでした。 父はおととしの12月も軽い脳血栓で 1週間だけ入院しました。 この時も自分で病院まで行って、入院しました。 やがて、すぐ退院して 月1回の通院が始まりました。 血栓(地が固まりやすい)のための ワーファリンという薬を知っていますか? これは、血が固まらないようにする一方で 出血したら止まりにくくなってしまうので処方には注意が必要です。 毎回、血液検査を行なって その検査結果に応じて ワーファリンの処方量を決めなければなりません。 しかし、父の主治医は違いました。 毎回、病院に行くと数時間待たされて 3分間だけの診察です。 父は、血圧をはかられて 「調子はどうですか?」とたずねられて それで終わりです。 そして、毎回変わらない量の ワーファリンを処方されて、のみつづけてきました。 父はいつも僕に向かって冗談めかして 「血圧はかるだけなら うちに血圧計あるんだからムダだよな」 と笑っていました。 食生活も完全に改めて、 新しい生活が1年間経とうとしていました。 父は、そして、前回の入院から 1年が過ぎたことを喜んだ数日後に、意識が戻らなくなりました。 脳の出血がワーファリンのせいもあって ふつうの人よりも多くかつ止まらなかったのです。 ---------------------------------------------------- 僕は、父が手術を終えて なんとか一命を取りとめてから急いで セカンドオピニオンを受けに行きました。 横浜にある有名な 脳血管治療のセンターです。 カルテは貸し出してもらえなかったので CTスキャンの束を借りて、母と行きました。 そこで、僕はこう言われました。 「お父さんは、朝からうちに来てくれてたなら 今も意識があったかもしれません」 「朝の時点で、治療としてやれることがありましたね。 同じ神経内科医としてお詫びを申し上げます。 本当に残念だったとしか言いようがありません」 ---------------------------------------------------- かつて僕は、父が意識を失ってしまう前、 父がその病院に通っていることを僕はとても嫌がっていました。 何故ならその病院は 地元では「すぐ人が亡くなる」ということで 『あだな』をつけられていました。 そんなレベルの病院だとたくさんの人に言われているのです。 僕はその病院を、目の敵にしています。 かつて大学時代までは 僕も「近いから」とそこに通っていましたが 途中からその病院の問題に気づいて、別の病院に変えました。 重いケガや病気で救急車に乗せられても 「そこには行かないで!」と必死にお願いしています。 しかし、かつての父は、 昔気質の人なので1度行った病院には そのまま通い続けなければ悪い、と僕に言いました。 今、僕はハッキリと断言します。 そんな意地も義理も捨てるべきです。 合わないドクターは、どんどん変えるべきです。 評判が悪いドクターは、それ相応の理由があるからです。 医療に詳しいジャーナリストの友人に 僕の父のことを話すと 「医療過誤の可能性がある」と言われました。 けれども、治療費を捻出するだけで精一杯なのに どれほどドクターが憎くても、訴訟を起こす余裕がありません。 たとえドクターが罰せられたとしても、かつての父は戻ってきません。 とても哀しくて、とても虚しいです。 ---------------------------------------------------- やがて父は命を取りとめて 数ヶ月が過ぎました。 いわゆる急性期が過ぎて 慢性期に入った、とドクターに言われました。 それはつまりやんわりと 「退院してほしい」と言われたわけです。 それから必死で転院先探しが始まりました。 もちろんその病院にも 地域医療連携室というものがありましたから その職員さんは病院探しを 必死になって手伝ってくれるのかと思いました。 でも、違いました。 病院がたくさん載っているブ厚い本を渡されて 「その本から転院先を探して下さい」と言われました。 数ヶ月間がんばったけれど どうしても見つけることができませんでした。 しまいには、地域医療連携室の職員から 特別養護老人ホームなどの介護施設をすすめられました。 父さんに必要なのは 医学的なリハビリなのに! 十分な医療的リハビリテーションをできない 介護施設に入れられてしまえば 父さんはやがて廃用性症候群になって、 やがて固まっていき、死ぬだけです。 結局、僕はこの地域医療連携室を もう絶対に信じないことに決めました。 -------------------------------------------------- 僕は、セカンドオピニオンをもらいに行きました。 数ヶ月間の父の経過をみてもらうと、 「お父さんはリハビリを継続することで まだ回復する見込みがあります。 高齢者の福祉施設ではなくて リハビリテーションに力を入れている病院が必要です」 と言われました。 -------------------------------------------------- やがて、あらゆるつてを使って探しまくった末に、 静岡県に受け入れてくれる病院を見つけました。 リハビリテーションに熱心に取り組んでいることで評判で、 家族みんなで見学に行きました。 数時間かけてそこを訪れると その病院の医療連携室の方(MSW)が迎えてくれました。 そして、話をじっくりと聞いてくれて 「この病院でお父さんの回復をめざしていきましょう」 と言いました。 同じ地域医療連携室でも 何でこんなにも質が違うのだろうか、とショックを受けました。 こうして何とか転院先が見つかり、 やっと、最悪の病院を抜け出すことができました。 とてもホッとしました。 民間の医療移送サービスにお願いして この病院から別の病院へと 父さんを搬送してもらいました。 ----------------------------------------------------- それから、5ヶ月。 病院を変えたおかげで、 父のじょくそうはすぐに治りました。 じょくそうは、きちんと体位の変化を行なえば 「そもそもできないもの」なのです。 高齢者施設で働いている僕の仲間は 「じょくそうを作ったらプロとして恥だ」 と言います。そう、僕の父がはじめに通った病院は そんなレベルの病院なのです。 今、父はリハビリテーションをしてもらっています。 自分自身は意識が無いのですが、 理学療法士の方々が 話しかけながら 父の体が固まらないようにほぐしていきます。 損傷した脳に対して 体への刺激を通してアプローチしていくのです。 もしも、初めに行った病院の地域医療連携室に従って 高齢者の福祉施設に父を入れていたならば 今、父は生きていただろうか、と思います。 僕は、父はまだ回復すると信じています。 その回復を助けてくれるのが 毎日のリハビリテーションです。 この病院は、お風呂にも毎日入れてくれます。 かつての病院は違いました。 ------------------------------------------------- 話を最初に戻します。 僕があなたに伝えたい3つのこと、 もう1度、ここに書きます。
僕は、明らかにドクターは間違っていると思っていながらも 父の気持ちを変えることができずに、 3分診察で血圧しかはからずに いつも同じ量のワーファリンを処方するだけの ヤブ医者に父を通わせてしまいました。 今、あなたにお願いします。 もしも、あなたやあなたの家族がかかっているドクターに 少しでも疑問や不安を感じるならば、すぐに変えてください。 ドクターへの義理なんていりません。 命がかかっているからです。 そして、治療方法に納得がいかなければ すぐにセカンドオピニオンを受けるために 別のドクターに行って下さい。 ある医者が「治らない」と言っても それはその医者が能力が低いだけの可能性があります。 別の医者ならば治せるケースが たくさんあることを僕は知りました。 セカンドオピニオンを必ず受けて下さい。 そして、これから先、 診療報酬制度のせいで長期の入院ができなくなって、 3ヶ月を過ぎると「退院してください」「転院してください」と言われます。 その時に、あなたの通う地域医療連携室は 本当に「あなたのため」に働いてくれるでしょうか? ちゃんとしたメディカルソーシャルワーカーが 存在しないような病院もゴロゴロしています。 地域医療連携室を作れば それで終わり、という質の低い病院もたくさんあります。 「おかしい」と感じたら、 そんなところの指示には従わないで下さい。 そして、必死になって あなた自身が調べて下さい。 時間はかかるかもしれませんが インターネットや口コミで 同じように苦しんでいる人々があまりにもたくさんいることに あなたはすぐに気がつくと思います。 これらのネットワークの方が よっぽど困った時の助けになります。 あなたやあなたの家族を守るために どうか最善を尽くして下さい。 そのためにも、自衛をして下さい。 病気の知識を身につけてください。 その病気の治療方法の知識を身につけてください。 そして、最後は自分の本心に従ってください。 それが、命を守ることにつながるはずです。 |
2005年11月20日(日)のフジノ |
● それでも「命があること」を希求してやまない 今日は、僕にとっては本当に苦しい日でした。 朝起きて、洗濯をして、部屋のそうじをして、 何事も無く今日が過ぎていくのかと思いながら お墓参りに行って、ごはんを食べて、 仕事をして、やがて1日が終わろうとしていました。 けれど、それはやはり月日が経っても 僕の中から消え去ることは決してありませんでした。 涙は断続的に流れ落ちて、腕はがくがくと震えて、 自分がこうして息をしていることや何もかもが許せなくて 胸がいっぱいになってしまいます。 1人きりになって、誰とも会いたくない。 だけど、孤独で押しつぶされそうになる。 この孤独は、何によっても埋められないことは分かっていて、 だから今しばらくは 自分の救いようのない無力さに自己嫌悪しながら 苦しみが落ち着いていくのをただ静かに待とうと思います。 ----------------------------------------------------- 昨年の今頃は、 本当に死にたかったです。 地下鉄の駅に立っていると 飛び込もうという衝動を抑えることができなくて 壁の方を向きながら必死に耐えていました。 親しい友達の助けが無ければ 今こうして生きていなかったと思います。 それから1ヶ月もしないうちに 父が植物状態の寝たきりになってしまいました。 母も入院してしまいました。 僕は、自分の痛みから目をそむけて 家族を守ることに気持ちをそらしました。 そうして1年が経ちました。 日々の暮らしは、いろいろなサポートのおかげで 何とかスムーズに行っているように 少なくとも外側からは見えるようになりました。 ただ、本質的な痛みは 何も変わらないことが分かりました。 深く、深く、その痛みの場所が沈んでいくだけで 表には見えないけれど確実に存在している哀しみ。 自分の半分を失う痛み。 僕にはまだ何も見えない。 はっきりとしたことなんて何も分からない。 何故、自分だけが年をとっていくのか。 何故、こうして生きているのか。 もとより生への執着は僕には無いけれど、 生物としての本能が僕を生かしているのだろうか。 何もかも分からないまま、 だけど、僕は父さんが生きていてほしいと願う。 そして、家族を失いたくないと想う気持ちと同じように これ以上、誰も同じように苦しまないでほしいと切実に願う。 強がりは何も言えないけれど、 ささやかに僕は「命があること」を願ってやまない。 最も大切な1つを守れなくて、 それでも、だからこそ、それ以外の全てを守りきりたいと思って 必死で日々を生きていく。 他に何ができる? 答えが分からない僕にできることは ただ「命があること」を希求しながら 大切なものを守るために生きていくことだけだ。 |
2005年11月19日(土)のフジノ | |||
● ローカル・マニフェスト検証大会「お願いから約束へ」 今日は、お台場にある 国際展示場『東京ビックサイト』へ行ってきました。
ローカル・マニフェスト推進地方議員連盟に フジノは所属しています。今日はその大会の場である、 『第2回ローカル・マニフェスト検証大会〜お願いから約束へ〜』 に参加してきたのです。 マニフェストはこれからの新しい政治家にとって 必要最低限の『グッズ』になります。 議員の側のマニフェストはまだ試行錯誤段階ですが 市町村長・都道府県知事の選挙では マニフェストと公開討論会は もはや不可欠です。 この大会では、2年半前の選挙で知事になった方々が出した マニフェストの1年ごとの中間チェックをしています。 こうして、 (1)選挙の時にマニフェストを提示する (2)マニフェストで政策ベースで候補者は競いあう (3)市民のみなさんはそれを基に判断して投票を行なう (4)当選後は、マニフェストを実行していく (5)数値目標と工程表が明らかなので進捗状況をチェックしていく というマニフェストサイクルが 行なわれていくのです。 マニフェストは市民のみなさまとの『契約』であるだけでなく、 政策が必ず実現されるためのツールなのです。 これがどの選挙でも当たり前に行なわれるのが こうして集まっている目的です。 ● 横須賀市長とマニフェスト 横須賀市議会議員で このローカルマニフェスト推進地方議員連盟メンバーなのは 矢島さん(矢島まち子市議・Y.C.C.)と フジノだけなのですね。 横須賀市長選挙の時、 矢島さんは蒲谷市長側に、 フジノは木村さん側に、別々の陣営に別れました。 矢島さんは蒲谷さんにマニフェストをつくるよう要請しましたし、 フジノも木村さんにマニフェストをつくるべきだと言いました。 結果的に矢島さんの要請は実って 蒲谷市長は完全ではないもののマニフェストを作りました。 一方、フジノは失敗しました。 木村さんがマニフェストを作ることはありませんでした。 マニフェスト選挙を誰よりもすすめられる立場なのに 横須賀市長選挙がマニフェスト選挙にならなかったことに対しては フジノは戦犯として責任を感じています。 だから、矢島さんの要請があったおかげで マニフェスト選挙という意味では救われました。 陣営がそれぞれ別れてはいても それはそれ。 政策が異なっても 新しい政治を実現することを目指す政治家として 取った行動はお互いに正しかったと思います。 ● アサノ知事、最後の仕事 もともと『ローカル・マニフェスト推進議員連盟』メンバーだから 今日のこの検証大会に参加したのですが、 フジノは個人的に もう1つの目的がありました。 それは、尊敬するアサノ知事の 『知事』としての最後の仕事ぶりを見たかったからです。 アサノ知事は、今日の大会では マニフェストの第三者評価を行なう立場から発言する役割で参加。 知事を辞めた後もマニフェスト推進に協力してくれます。 僕にとっては、知事じゃなくなっても アサノさんはアサノさんに何も変わりはありません。。 ただ、昨日、宮城県庁で退任式を終えて 月曜日には新しい知事と交代している訳ですね。 フジノにとって、政治家になるきっかけの1つでもある アサノ知事の知事としての最後の姿を しっかりとこの目に焼きつけておきたかったのです。 アサノ知事は、(応援していた候補者が負けたこともあって) もしかしたら落ち込んでいたり元気が無いかと思ったら 変わらずにユーモアがあって、 かつ、宮城県のことを熱く語っていて いつもの僕の尊敬するアサノ知事のままでした。 うれしかったです。 |
2005年11月18日(金)のフジノ | |||||||
● 健康安全科学センター、新しくなった衛生試験所 今日は、新しくなった衛生試験所である 『健康安全科学センター』の開所式に参加しました。 民生常任委員会のメンバーとして 感染症対策が今後はさらに重要になるとの想いから 予算にも賛成しました。 また、検査業務が本格的にスタートしてしまうと なかなか中に入ることができません。 そんなわけで、ぜひ見学しておきたかったので セレモニーから参加してきました。
市長・市議会議長・日の出町内会長の3人が テープカットを行ないました。 その後、じゃっかんのスピーチがあってから 自由に中を見学することができました。
3階建てで、中はこんな感じです。 衛生試験所の役割は、時代と共に変わってきました。 市民のみなさまに割となじみがあるのは 例えば、食中毒の検査や海の水質チェックだと思います。 他には、年間900件もの『収去』を行なっています。 『収去』は、食品衛生法(第28条)の作業です。 食べもの安全をチェックするために 食品衛生監視員が スーパーなどのお店から食品(肉や魚など)を 無償で提供してもらうのですね。 それらを年間計画に基づいて検査しています。 こうして、横須賀市の『食の安全』を守っているわけなんです。 しかし、これらに加えて 近年ではあらゆる危機管理が必要になってきました。
これらの取り組みによって このまちの『健康』と『安全』を守っていくのが 『健康安全科学センター』なのですね。 フジノは開所式の後も1人で1時間ねばって いろいろ聞かせてもらってしまいました。 縁の下の力持ち。 本当に大切な部門だと思います。 ● 蒲谷市長のタウンミーティング、第1回目が行なわれました 今夜は、かねてから開催を提案してきた 市長によるタウンミーティングの第1回目が行なわれました。 タイトルは『市長と語る、横須賀の未来』、 本日のテーマは『地域産業の活性化を考える』でした。 会場は久里浜行政センターで、 約150人の方が参加していました。 プログラムはこんな感じです。 19:00〜19:10 まず、コーディネーター(司会)の自己紹介。 でも、これがやたら長かったです。 場内からも「市長の話を聞きに来たのに」とため息が出てました。 次回からは、この時間帯は無くしてほしいです。 19:10〜19:30 蒲谷市長の自己紹介と 「私がめざす『元気な横須賀』」という話がありました。 19:30〜19:45 休憩 この15分のあいだに質問用紙に市長への質問を書いて 提出をする。コーディネーターが質問紙をまとめて 市長はそれらに意見を述べるという形。 19:45〜20:45 質問用紙に対して市長が意見を述べる 会場に配られたプログラムには『意見交換』と書いてあった通りで 市長が質問に答えるというよりは 会場から出た質問に対して 市長が意見を言っていただけでした。 20:45〜21:00 参加者と質疑応答 やっと本当のタウンミーティングだったのがこの時間帯でした。 会場の参加者が手を挙げて、それに市長が答えました。 けれども時間が短いので、 質問ができたのはたった3人だけでした。 ここの時間帯を最も長くするべきです。 以下、フジノの感想です。 <ダメだった点> フジノはタウンミーティングを提案してきた人間として、 とにかく「今後も継続してほしい」と強く願っています。 「今回は初めてだからしかたない」とは思いますが、 進行にメリハリが無く、だらだらしていました。 パワーポイントを使うなど もっと当たり前のプレゼンテーションを行なうべきです。 この一連のタウンミーティングは 市長側がテーマを設定してしまっています。 それならば、そのテーマにあった資料を配ったり パワーポイントでの説明を行なうべきです。 マイクでだらだらと市長が1時間以上話し続けるだけでは とてもではありませんが、聞き続けるモチベーションが続きません。 実際に途中で帰る方も数名いました。 それから、市長の発言が 失言というか、軽すぎるところが多くありました。 「今日が第1回のタウンミーティングということで こちらの久里浜で行なうことになりました。 久里浜で最初に行なうことに 特段の理由は無いんですけれど」 とか...。 自分が久里浜住民だったら不愉快です。 何故そんなことをわざわざ口にするのか理解できません。 ペリー上陸の歴史を持つ久里浜は、とか 横須賀に歴史があることは資源の1つだ、とか後で言ってたのに。 フジノならば、どうしても触れなければならないのなら こんなふうに述べたと思います。 「このまちの歴史を語る上で欠かすことができない 久里浜の地からこそ 新しい市民と市長との関係をつくっていく このタウンミーティングを始めたい」 あるいは、順番を決めた理由が無いのなら そんなことは言う必要が無いと思います。 さらには、会場からの 「地域産業を活性化するには?」という質問にも 「悩みは結局みんな同じで、どうするかと言われても...」 と答えたりしていました。 場内は苦笑。 市長は冗談で言っていたのかもしれませんが、 今回のタウンミーティングはこのテーマを話し合うための場なのに 「どうするかと言われても」なんて答えられたら 市民のみなさんは 市長は大丈夫なのか?と思わざるをえません。 そして何よりも、「市民と対話」ではなくて 市長からの一方通行の話になっていたことです! 場内の参加者が自由に手を挙げて発言できた 最後のわずか10分間だけが 本当の意味での対話になっていました。 それ以外の時間は、緊張感も無く 質問用紙に書かれた質問を コーディネーターが当たりさわりなく要約してしまったものに対して 市長が一方的に意見を述べ続けるだけでした。 これでは対話とは言えないです。 むしろ、最後の10分間をメインにすえて 市長は市民のみなさんの率直な声に耳を傾けるべきです。 <良かった点> 市長が1人きりでステージの真正面に座って ほとんど全ての時間を市長のみが答えていました。 2回だけ副市長にメモを回してもらっていましたが それ以外は、そもそも隣に市職員が座っているようなこともなく、 全てをきりもりしていた姿には リーダーシップが感じられてとても良かったです。 民間企業の株主総会では(ほとんどの場合)、 司会進行も株主からの質問への回答も 社長が1人きりでこなします。 やはり株主である市民のみなさまからの質問には 市長みずからが自分の言葉で答えることが大切です。 話す内容や座ったままで話し続けていることなどは抜きにして ともかくトップである市長みずからが 1人きりで対応しきったことはとても良いことでした。 そして、母親クラブ大会の時にも書きましたが 市議会での答弁とは異なり ユーモアある話をしていたことも評価できます。 どうしても蒲谷市長には 『自治省天下り官僚』というイメージがありますが、 自らそれをジョークにして、場内から笑いをとっていました。 ユーモアと軽い発言・失言とは 市長という立場上、紙一重になってしまいますが それでも節度あるユーモアはリーダーとして出していくべきです。 そういう姿に市民の方々は 市長への親近感を少しずつ抱いていくと思います。 そして何よりも、タウンミーティングを実行したことが 最大の良かった点です。 沢田前市長はいくら提案しても 決して最後まで、不特定多数の市民のみなさまの前で 直接に対話の機会を持とうとはしませんでした。 蒲谷市長は(コーディネーターに守られていたとはいえ)、 不特定多数の市民のみなさまの前に出て 対話の機会を持ったことは、 大きな前進です。 タウンミーティングをやるなんて他のまちでは当たり前のことですが、 それでもこのまちで初めてそれを実現するということは とても勇気がいったことだと思います。 この点は率直に、最大限に評価したいです。 ------------------------------------------------------- 今日は、タウンミーティングで語られた 『内容』には触れないことにしました。 あくまでも「タウンミーティングを成功させて継続していくには?」 という視点からのみ書きました。 まだそこで語られた内容で 市民の方々が満足するにはとても遠い状態だと思います。 けれども、何よりも今は まず市長みずからが市役所の市長室を飛び出て 市民の方々の目の前に出てくることが大切だと思います。 そして、いつだって行政は市民のみなさまと共にあるのだ、と アナウンスし続けることが大切です。 22日(火)、12月14日(水)、18日(日)、と これからもタウンミーティングは続いていきます。 少しずつ市長も慣れていって もっとやり方も改善されていくと思います。 フジノはそれを今しばらくは見つめ続けて行きたいと思います。 どうかみなさまも直接に足を運んで ぜひ市長が目の前で話している姿を見に来て下さい。 どうぞよろしくお願いします。 |
2005年11月17日(木)のフジノ | ||||
● 神奈川県の不誠実な対応、平作の方々への裏切り 今夜は平作町内会館で行なわれた 『芦名産業廃棄物最終処分場への搬入道路』問題について 神奈川県の説明会に参加しました。 ● フジノには『地元町内会』という発想は全くありません。 僕の地元は三浦半島です。 選挙区は横須賀市全体です。 だから、熱心に「フジノ議員、来て下さい!」と呼ばれれば どこのまちにだって行きます。 それが本来の議員の仕事だからです。 ● さて、平作にお住まいの方々から 今夜の説明会に参加してほしいと呼ばれた訳は...。 芦名の産業廃棄物最終処分場へごみを運ぶトラックの 『ごみを運ぶ道(搬入路)』が変更したい、と 突然に県から説明があったのです。 理由は、県道久里浜田浦線の工事が遅れている為。 だから、久里浜田浦線のかわりに 平作の住宅街のどまんなかを『搬入路』にしたい、というのです。 (神奈川県環境農政部の配布資料より) 本来は横須賀インターチェンジを出た後、 @へと進んで、『久里浜田浦線』(点線で表示されています)を通って 最終処分場へと向かう予定でした。 それが、この図のように、横須賀インターを出ると 池上十字路へ、さらに金谷交差点から 金谷駿河坂線を通るというのです。 これが実現してしまうと、 産業廃棄物を積んだ大型トラックが3.4分に1台、 1日に往復142台も走り回ることになります。 この道路、いくつもの理由で 大型トラックが1日に往復142台も通行するには ムリがあります。 1.現在は大型車が進入禁止となっている車両規制地域である 2.処分場までの間に信号はたった1ヶ所しか無い 3.城北小・衣笠中のスクールゾーンの中であり、 多くの子どもたちがこの道を使って通っている 4.診療所があり、デイケアもあり、多くの高齢者が使っている 5.幼稚園の園バスの停留所がいくつもある 6.道路沿いには2つの公園があり、憩いの場になっている さらに、池上十字路の渋滞が 悪化することが容易に想定されるなど 地域の方々の暮らしをあまりにも無視した変更なのです。 しかも、その原因である工事の遅れというのも もともとが田んぼなどの地盤が 軟らかい土地に道路を作ろうとして 進みが遅くなってしまったから、というのです。 こんなことは、工事を始める前に 想定していなければならない当然のことで リスク管理ができていない県庁のつけを 平作の方々に押し付けるものでしかありません。 ------------------------------------------------------- 説明会場である平作町内会館では、 夜にもかかわらず地域の方々が約90人も集まって 県の説明を受けました。 しかし、これがまた『説明』なんてものではなくて 勝手に決めてきたことを理解しろと『おしつける』場でした。 当然ながら、参加したみなさんが 「絶対に受け入れられない」 と反対の意見を述べました。 県の説明をいくら聞いても とても誠実な対応とは思えませんでした。 伊藤市議・ねぎし市議・藤田県議がいらしたので 帰りに3人とお話しましたが、やっぱり誰も納得いってませんでした。 フジノも明らかにおかしいと思います。 そもそも芦名の産業廃棄物最終処分場そのものに 当時は政治家ではなかったけれども フジノは大反対でした。 芦名の美しい自然が失われたばかりでなく、 さらに今度は平作の方々の安全・安心まで脅かそうとしている。 これでは行政は誰のために存在しているのか、 全く分からない。だから行政不信・公務員批判が鳴り止まない。 当然だよ。 本当に情けない。 公務員だって、仕事を終えて家に帰れば 同じ1人の市民であるはず。 それなのに何故、同じように痛みを分かち合えないのか。 残念です。 ● 感動、大島巌先生から本を贈呈されました! 今日、事務所の郵便ポストをあけて 大感激でした。 大学時代の『こころの師匠』である 大島巌先生(東京大学大学院医学研究科精神保健学分野・助教授)から 本とお手紙をいただきました!
僕の通っていた大学は医学部が無い為、 どうしても精神医学の論文が少なくて だから、提携先の慶応大学医学部の図書館に通っていました。 そこで大島先生の論文を読みあさりました。 直接にお会いしたことは無いけれど、 論文用の無機質な文章からも ひしひしと伝わってくる熱い想いを感じて 自分の大学で形式的に選ばされたゼミの先生よりも 本当の意味で大切な『こころの師匠』だと いつも思ってきました。 大島先生の研究から得られた結論を信じて 「この国から精神障がいへの偏見を無くせるのだ」 と僕は今も信じて それが今も政治家フジノを突き動かしています。 そんな大島先生に 実は先日、直接にお会いして たくさんのことをお話しする機会がありました。
この時、僕は、あまりにも尊敬してきた方との対面に がくがくに緊張しながら、お話をさせていただきました。 現在、大島先生はACTの日本版『ACT−J』に取り組んでおり、 フジノはこれを何とかして三浦半島でも実現できないかと いつも考えています。 このことについてもアドバイスをいただきました。 ------------------------------------------------------- ところで、いただいた本は、実はすでに持ってました(笑)。 大島先生は、僕が大学に在学していた 10年くらい前から全く変わりなく 今も熱い情熱で仕事をしているのです。 その仕事ぶりは今だっていつも注目しています。 でも、持っている本でも 大島先生からいただいたというだけで 僕にとっては特別です。 大島先生、ありがとうございます! 感動! |
2005年11月16日(水)のフジノ |
● 高次脳機能障害をとりまく状況をわずかでも好転させたくて ある日、あなたの大切な人が交通事故に遭ったとします。 脳に大きなケガをして大手術をして 瀕死の状態をくぐりぬけた末に何とか退院をしたとします。 「死んでしまうかもしれない」という状態から やっと家に帰ってこれて、本人も家族もとても喜んで、 またいつもの暮らしに戻っていかれると誰もが思っていたのに。 ...しかし、何かが変わってしまった。 あなたの大切な人は どうしても新しいことを覚えられなくなってしまった。 外出しても行き先が分からなくなってしまったり、 何をするべきだったのか分からなくなってしまうことが 起こるようになってしまった。 集中力がどうしても続かず、 同時に複数のことができなくて 以前から勤めていた仕事ができなくなってしまった。 かつては穏やかな性格だったのに ほんの些細なことで怒りの感情を抑えられなくなってしまった。 何かが違くなってしまったのです。 かつての大切な人と 外見は何も変わらないのに。 ● これが『高次脳機能障害』の症状の フジノによる(あくまでも1つの)例です。 言葉としての『高次脳機能障害』は 去年くらいからフジノの視野には入っていました。 いつも精一杯アンテナを広げてきましたが 当事者の方にお会いする機会がありませんでした。 「何かができないだろうか」とハッキリ感じたのは この夏のことでした。 実習先で初めて実際に 当事者の方とご家族にお会いしたのです。 ご家族の体験している苦労を目の当たりにして そして何よりもご本人の姿にうたれて 「何かをしなければならない。政治にもできることがあるはず」と 強く感じました。 昨日、高次脳機能障害に関する本を やっと1冊だけ読み終えました。 3年前に出版された本なのに 状況は現在とあまり変わっていないように感じました。 この知られざる『高次脳機能障害』によって 苦しんでいる方々のニーズを 政治と行政の力で少しでもやわらげることができないだろうか、 と、やっと僕の決心がつきました。 ------------------------------------------------ 高次脳機能障害は、まだまだ一般に知られていません。 だから、本人はおろか、 まわりのご家族も気づいていないことが多くあります。 ドクター(医療機関)でさえ 診断ができない方がまだまだいます。 そんな中、現在、このまちでは 『浦上台身体障害者相談サポートセンター』(シャローム浦上台)が いくつかの取り組みを行なってくれています。 高次脳機能障害ワークショップを開いたり、 家族のつどいを定期的に開催しています。 もしかして、と思う方は どうか連絡してみて下さい。 市の動きとしては障がい福祉課が 医療機関にアンケートを取るなどの活動を行なっています。 フジノは政治家として何ができるか。 成立した障害者自立支援法の存在が重くのしかかっていて 正直なところ、障がい福祉そのものに対して どういうスタンスが取れるのか まだ悩んでいます。 けれども、できることは必ずあります。 今後、まず現状をもっと詳しく知るために シャロームの取り組みや 神奈川県リハビリテーションセンターや 横浜仲町台にある作業所を見学させていただくなど どんどん活動していきたいと考えています。 その上で、以下の取り組みを進めていきたいと考えています。 (1)市民のみなさんに少しでも現状を知っていただく (2)市の窓口・健康福祉センター・保健所など 相談窓口の担当者の方々にも 高次脳機能障害への理解を深めてもらうこと (3)県リハセンターなどへのスムーズな連絡・調整を行なうこと (4)市内の医療機関との連携を深めること 今後もこのHPや議会活動報告チラシなどで 積極的に情報をお伝えしていきたいと思います。 ● この半世紀に儲けてきた世代を引退させねばならない 今夜は政策学校一新塾での研修、 タイトルは『地域経営の時代』でした。 日本政策投資銀行の藻谷浩介さんによる講義は ものすごくエキサイティングでした。 フジノがこれまで直感で考えてきたことや言葉にしてきたことが、 藻谷さんによる莫大なデータの分析によって 理論的に裏づけられた、そんな感じなのです。 今後の医療・福祉政策を考えていく上でも 少子社会での自治体の在り方を考えていく上でも このまちの労働・経済の方向性を提案していく上でも とても有効な現状分析と今後の方向性を アドバイスしていただきました。 今日の研修を活かして このまちをさらに掘りさげて分析していき、 今後の政策に反映させていきたいです。 |