まちの政治家は、こんなことしてます


2007年10月31日(水)のフジノ(その1)
● 野比中学校へ行ってきました!

 今日は朝10時からお昼14時まで
 野比中学校に行ってきました。

 先日お知らせした『総合的な学習の時間』での取り組みの為です。

 10時半から12時半が生徒たちとの時間です。
 (その前後は校長先生&総合的な学習の時間担当の先生と
  いろいろなお話をしました)

 約2時間、フジノの全身全霊をかけて
 130人の15才と向き合ってきました。

 この準備の為に、何日もかけてきたのですが
 それでも伝えたいことの半分も伝えきれませんでした。

 いやあ、難しいですね(笑)

 塾講師のアルバイトもしていましたし
 教育学部の卒業なのですが
 もともと話すのがヘタクソなフジノは想いが空回りでした。


● その提案は、現実に通用するものがたくさんありました

 生徒たちが90本以上の条例案をつくってくれたのですが
 時間のつごうで全てをお話しすることはできませんでした。

 野比中の先生が選んだ7本の条例案について
 コメントをしました。

 1.レンタル自転車条例
 2.お年寄りニューワーク条例
 3.横須賀市民老人介護条例
 4.横須賀市でエコキャップ活動を条例
 5.自殺対策条例
 6.海をきれいにする条例
 7.中学校給食条例

 先日も紹介しましたけれども
 良いアイディアが多いんですよね。

 例えば、レンタル自転車条例。

 これは素晴らしいアイディアで
 まさに実際にすでに社会実験として観光政策の中で
 いろいろな都市で行なわれているんですね。

 自動車ではなくて、自転車を積極的に活用することで
 交通渋滞を無くし、観光地へのアクセスしやすさを改善していく訳ですね。

 これらに加えて生徒が考えてくれたのは
 自転車によってCO2の削減にもつながるという点です。

 こんな風にとてもしっかりと考えているので
 昨日もおとといもフジノは深夜まで読み込んでしまいました。


● いろいろな視点を持ってもらえたら

 さて、今日は生徒たちの条例案にコメントするというよりも
 「一緒に考えてもらうきっかけ」みたいなものをお話ししてきました。

 例えば、お年寄りニューワーク条例。

 これは、

 高齢の方々もまだまだお元気ですし、
 現役時代の仕事の能力や技術を活かして
 町内会でいろいろな仕事をしてもらうおう!

 そうすれば元気をさらに維持できるし、
 年金に加えてお給料が入るのでいろいろプラスになります

 それを「new-work」と呼んで、
 お年寄りニューワーク条例と名づけたのですね。

 この条例案もまた現実に『シルバー人材センター』として
 まさに実現していることなのですね。

 生徒たちのアイディアは
 現実の世界で実際に活かされているレベルなんですね。
 発想の自由さと同時に現実に「使える」発想なのですから、すごいです。

 さて、フジノはどういうコメントをしたかというと...。

 「高齢の方々でもお元気な方はいっぱいいるよね。

  定年になったから仕事を辞めなければいけなかっただけで
  まだまだ現役の人たちに負けない仕事をできる人も
  たくさんいるよね。

  特に、職人さんなんかは
  働いている年月が長ければ長いほど技術がとぎすさまれていって
  若い人たちみたいな体力は無くても
  その技術には誰もかなわない、みたいな人もいるよね。

  そんなすごい技術のある高齢の方々が
  現役時代よりは安いお給料で働いてくれるとしたら
  どんどん注文が来るよね。

  だって、ユニクロもそうだけど
  安くて質が高い方がみんな喜ぶよね?

  例えば、僕だったら、庭の木が茂ってしまったけど
  仕事で忙しくて自分ではできないなあという時に
  ご近所に元職人さんでニューワークとして庭の木を切ってくれる
  高齢の方がいたら絶対に仕事をお願いすると思います。

  そこで、ひとつ角度を変えて
  みんなでちょっと一緒に考えてほしいことがあるんだけど

  今は超高齢社会ですから
  どんどん高齢の方々の人数が増えているよね。

  そこで、さっきも話したけれど
  実際にシルバー人材センターという組織もあるんだけれど
  この条例が実現して、

  安くて高い技術を持った高齢の方々が
  どんどん仕事をしてくれるようになっていったら
  良いことだけじゃないことも起こるよね?

  物事には長所と短所と両方必ずあるけれど
  条例というのは必ず両方を考えなければいけないんだ。

  例えば、これが実現してどんどん進んでいったとしたら
  マイナス面としてはどんなことが起こるかもしれない?」

 その問いかけに生徒たちは
 口々にいろいろなことを考えて答えてくれるのですが
 ある生徒がバシッと言いました。

 「若い人の仕事が無くなります」

 そう、ナイス!

 そして、物事の両面を見ていくことが政治であって
 良いことと同時に起こる弊害も考えていく必要がある、ということを
 フジノは解説しました。

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 あるいは、こんな感じです。


 「横須賀市民老人介護条例、これも本当に良いアイディアですね。

  さて、条例案の中に『ホームヘルパーを増加させる』とあります。
  みんなの中に、高齢の方々の福祉で働きたいという人、いますか?」


 ひとりの女子生徒の手があがりました。


 「おお、ありがとう。
  福祉分野で働くことって本当に素晴らしい仕事なので
  ぜひ夢を実現して欲しいなあと思います」


 その女子生徒は恥ずかしそうに顔を赤らめながらも
 しっかりと手を挙げてくれて、
 福祉を専門にする政治家であるフジノは
 本当に彼女にありがたいと感じました。


 「さて、その一方で、さっきと同じように
  ちょっと考えて欲しいことがあります。

  今、高齢の方々の福祉、介護の現場では
  実は深刻な人手不足なんです。

  資格を持っている人はたくさんいるんですよ。
  それなのに人手不足なんです。

  何故かというと、福祉の現場は仕事は尊くて素晴らしいのに
  残念なことに本当にお給料が少ないんです。

  そうすると、理想としては働き続けたいのだけれど
  お給料が少ないと生活が厳しくて
  結婚もできないし、こどもも育てられないし、ということが起こって
  そして介護の仕事を辞めてしまうんですね」


 さっき手を挙げてくれた女子生徒の表情が少し曇ってしまいました。
 こころぐるしいのですけれども
 いずれ彼女も必ずこの現実を知る時が来るはずです。
 そこで、彼女に対して申し訳なさを感じつつも話を続けました。


 「残念ですけれど、こういう現実が実際にあるんですね。

  だから、ホームヘルパーさんを増やすという条例案は
  それ自体は100%正しいアイディアです。

  でも、厳しい労働条件の中で、
  どうやって今よりもホームヘルパーさんの増加を実現するか、
  ここが勝負ですよね。

  条例を実現するには、具体的な方法が必要です。

  具体的な方法、というのは例えば今回の場合だと
  やっぱりホームヘルパーさんの
  お給料や待遇を
  もっと良くしていかれるようにすることですよね?

  じゃあ、どこからその為の予算、
  おカネを持ってくるか、ここが悩みどころです。

  おカネは無限にあるわけではない、というのは
  さっきもお話しましたよね。

  じゃあ、みなさんだったら、どうしたらいいと思いますか?」


 さすがに今回の質問は難しかったのか
 (リアルに現役政治家にとっても難しい問題です)
 生徒たちはシーンとしてしまいました。


 沈黙...。


 「悩んじゃうよね。でも、これが現実の政治の課題なんだよね。

  ホームヘルパーを増やす、というのは絶対的に正しい訳です。
  でも、増やす為にはおカネがかかる、
  おカネはじゃぶじゃぶ余っている訳では無い...。

  こういう時にどうしたらいいのかを考えていくというのが
  政治家がふだん必死になって考えていることなんですね。

  こないだの市議会でも、僕は実際に
  このこととすごく似たことを提案してみたんですね。

  でも、やっぱりおカネの問題というのは
  なかなか難しいことで実現していかないんです。

  現実の限られた条件の中で
  それでも正しいことを何とかして実現する為に
  いろいろなアイディアを一生懸命考えていくということが
  政治家の仕事なんですね」


 それからもう1度、さっき手を挙げてくれた
 将来、福祉の仕事に携わりたいという女子生徒の方を向いて
 言いました。


 「今の話ではちょっと落ち込んでしまいますけど
  福祉はすごく大切な仕事で、お給料が高いとか安いとかカンケーなく、
  本当に素晴らしい仕事なんですね。

  僕も福祉の国家資格を一生懸命勉強して取りました。 
  ぜひ福祉の仕事につきたいというみなさんには
  夢を実現してもらいたいと思っています」


● 次世代のこどもたちがやがてこのまちを背負っていく

 こうして約2時間の総合的な学習の時間が終わりました。

 フジノなりに全身全霊をかけてがんばったのですが
 悔しいけれども力不足だなあと反省することばかりでした。

 生徒のみんながフジノの一言ひとことに耳を傾けてくれて
 問いかけには「うーん」と一生懸命に考えてくれる。
 そんな姿はとても印象的で、こころに残りました。

 やがて、僕たちの世代も退場していきます。

 政治家としては若手と呼ばれる僕も
 世間的に見ればもう中間管理職の年代です。

 あっという間に人生は過ぎていって、
 かつて僕たちが上の世代から受け取ったバトンを
 やがて僕たちも次の世代に渡していく訳です。

 今日出会った野比中3年生のみんなは、15才。
 フジノは33才ですから、18年も違います。

 まさに彼ら/彼女らは、僕にとって
 次世代のこどもたちですね。

 でも、いずれ(たぶんあっという間に)
 彼ら/彼女らが大人になって
 このまちを背負う時代がやってきます。

 かつて僕たちの親の世代が僕たちに未来や希望を感じたように
 僕たちは次世代のみんなに未来や希望を感じています。

 良いバトンタッチができるように
 その時までに僕たちの世代は、
 全力でがんばっていかないといけないですね。

 そんな想いを新たにさせてくれた
 とてもありがたい機会でした。

 野比中3年生のみんな、今日はありがとうございました。
 僕の方がとても勉強になりました。

 今回提案してくれた条例案のような
 素晴らしいまちづくりのアイディアを創り出した気持ちを
 これからも持ち続けてくださいね。

 本当にありがとうございました。




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 最後に、生徒たちの素晴らしい条例案に
 政治家として未熟で知識や情報が足りなかったフジノをサポートしてくれた
 環境部環境計画課の方々、教育委員会学校教育課の方々、
 とても助かりました(汗)。ありがとうございました。

 貴重な機会を作ってくださった
 I先生をはじめ、校長先生・教頭先生・3年生の先生のみなさん、
 ありがとうございました。

 最近はいろいろな講演依頼を断り続けているフジノにとって
 こころからすごく楽しく取り組めた久しぶりの出来事でした。
 関係者のみなさまに改めて感謝を申し上げます。



2007年10月31日(水)のフジノ(その2)
● NPO地域精神保健福祉機構(通称、コンボ)へ行ってきました!

 今日は夕方から千葉県市川市を訪れて
 NPO地域精神保健福祉機構(通称、コンボ)におじゃましました。

 午前中の野比中学での活動でエネルギーを使い果たして
 すでにへとへとになっていたのですが

 「コンボのみなさんにお会いできるならば!」

 と、残された気力を振り絞って
 なんとか総武線に乗り込みました。

 フジノは、解散した全家連(全国精神障害者家族会連合会)を
 こよなく愛してきました。

 全家連の持つ大切な歴史や想いの積み重ねは
 解散によって消えるものではないと僕は信じています。

 その全家連の正統派の遺伝子を持っているのが
 NPOコンボだと感じています。

 さらに全家連を超えて新しく力強く感じることは
 コンボには当事者の方々が中心にある、ということです。

 これまで数回のイベントに
 参加してきたり
 会報である
 『こころの元気+』を読むにつけても
 つくづくこのことに対して
 フジノはこころづよく感じます。

 だからこそ、かつて全家連を愛したように
 また、この国の精神保健福祉を守る為にも
 コンボをこころから応援していきたいと強く決心しています。

 さて、そのコンボなのですが
 千葉県市川市に事務所があります。

 市川市といえば、精神保健福祉の『希望』ともいえる
 『ACT−J』を実践しているまちなのですね。

 コンボが事務所を置くのにふさわしいまちですよね。

 秋も深まり、17時にコンボ事務局に到着した頃には
 外は暗くなっていました。

 事務局ではみなさん忙しく働いていたのですが
 わざわざ時間を割いていただいて、
 2時間ほど精神保健福祉についての意見交換をしていただきました。

 それでも話は尽きることが無くて
 近くのモツ鍋屋さんへ移動して、22時半まで(合計5時間半だ!)
 いろいろなことを話し合いました。

 まだオープンにはできないのですけれど
 コンボと協力して全国レベルの動きとして
 1つやりたいことがあるのです。

 この国の精神保健福祉は必ずもっと良い方向へ向かうのです。

 ただそれは待っているだけでは実現できないから
 できることをみんなで協力して1つずつ実現していくのです。

 だからあなたにも力を貸してほしいのです。

 フジノの力はささやかですけれど
 生きている限り、
 その為に全力で働いていきたいと思います。

 今日はコンボ事務局のみなさん、
 お忙しい中、本当にありがとうございました。


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 県外視察で九州いったのを皮切りに
 今日は千葉県、あさっては栃木県、来週には仙台に行ったり、
 出張ずくめです。本音を言えば、体力も気力も限界...休みたいなあ。

 今年は体調が崩れっぱなしなので
 なんとかバランスをとって乗り切っていかれるといいなあ。

 がんばります。



2007年11月1日(木)のフジノ
● 住宅政策は、福祉政策から始まった

 今日は、1ヵ月半くらい前から約束していた
 都市部長と住宅政策課長とフジノの3人で懇談を行ないました。

 都市部にとってフジノと言えば

 美しい緑にあふれる山を破壊しまくってすすめられるマンションづくりを
 何故、横須賀市は許しているのか!

 すでに横須賀市は空き家が10軒に1.5軒もあるにも関わらず、
 何故、横須賀市はいまだに毎年5000戸ものマンション建設を
 許しているのか!

 住宅政策がなってない!


 みたいなイメージだと思うんですね。
 (イメージじゃなくて実際にそう訴え続けている訳なんですけどね)

 「フジノと話すのイヤだな〜」とか
 たぶん本音では思ってるんだろうな、みたいなね(笑)

 それでも、こうやってわざわざ時間を調整して
 住宅政策について意見交換をしてくれた部長たちに
 とても感謝しています。

 今日の懇談は、とても重要な意味があったと思います。

 そもそも日本だけでなく、世界の国々の多くで
 住宅政策は福祉的な問題からスタートしています。

 日本の場合も、1945年に戦争が終わるまでは
 住宅政策は厚生省(今の厚生労働省)が行なっていたのですね。

 市営住宅などの根拠法である『公営住宅法』だって
 担当が建設省(今の国土交通省)になったのは
 田中角栄首相の強烈な押しがあったから、というのが
 定説になっています。

 だから、住宅政策の源流は
 福祉政策(大きな意味では『社会政策』)なのです。

 この『そもそもの視点』について、
 都市部長らとかなり認識が共有できたと思います。

 横須賀市の場合、市営住宅の担当は
 都市部住宅政策課なのですね。

 都市部といえば、ゴリゴリのハード部門ですよね。

 でも、他のまちの場合には、市民部だったり、
 ソフト担当の部門のことがかなりあるんですね。

 住宅政策は今、国レベルでも明らかに転換点を迎えています。
 (例えば、2006年の住生活基本法の制定とかですね)

 だから今こそ『総合的な住宅政策の在り方』
 改めて源流にさかのぼって考えていくことは重要です。

 こうしたことをお互いに認識を確認できたのは
 まず大きな意味があったと思います。


● 再び住宅政策に福祉政策の視点を強く入れなければならない

 さらに、個別の課題についても
 いろいろな意見交換をすることができました。

 例えば、市営住宅に暮らす方々の
 高齢化の進行の激しさについてです。

 平成19年4月1日現在で、
 市内全ての市営住宅に暮らす人々は合計9707人です。

 このうち、61才以上はなんと3824人、39.4%です。

 つまり、市営住宅に暮らす方々の
 4人に1人は高齢の方々
なんですね。

 こないだの本会議で
 フジノは中高年男性の孤独という視点を述べました。

 同様に、高齢の方々の孤独も強いものがあります。

 マスメディアもNHKをはじめとして
 『孤独死』の問題に取組んでくれています。

 この状況は横須賀だって同じです。

 残念ながら市営住宅でも
 年2〜3名の孤独死が起こっています。

 亡くなってから数ヶ月が経って
 ようやく遺体が発見されるのです。

 すでにフジノのもとへも
 市民の方から孤独死について相談を受けています。

 今後もしも今のままでいけば、
 高齢の方々の増加と共に孤独死は増えていく一方でしょう。

 だからこそ、住宅政策に対して
 もっと強く福祉政策を取り込んでいく必要があります。

 もちろん福祉の側(フジノはこちら側ですね)としても
 様々な対策を行なってきました。

 けれども、もっと強く住宅政策に
 福祉の観点をアピールしていくのです。

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 市民の方から受けた相談の解決の為に
 (つまり目の前の問題の解決のことです)
 市職員の方と話し合うこともとても大切なことではあります。

 しかし、同時に、長期的な視点からの政策的議論も
 必ず行なっていくべきものすごく大切だとフジノは考えています。

 これからもこうした意見交換を
 積極的に行なっていかれたらいいなあと思います。



2007年11月2日(金)のフジノ
● 「目には目を、歯には歯を」ではない司法はありうるか

 フジノは数日前の活動日記
 友人との会話を通じて
 「死刑を廃止するなんて考えられない」とあえて書きました。

 死刑や刑罰が行なわれたとしても
 被害にあった方々の悲しみを癒すものでは無いし
 失われたものが取り戻される訳でも無いし、
 新たな犯罪が抑止されるとも考えられない、とも書きました。

 それでも死刑や刑罰が存在するのは当然だ、とフジノは考えています。

 何故ならば、罪をおかした人間はその報いを受けるべきだからです。
 こういう考え方は『応報的司法』と呼ばれています。

 一方、司法や司法福祉の世界で
 新しい考え方が生まれており、少しずつ日本でも動き始めました。

 それを『修復的司法(restorative justice)』と呼びます。
 例えば、加害者と被害者との交流を通じて
 被害者の復権をはかっていく、というものです。

 あくまでも被害者の方々の復権や支援の為の
 新しい司法の在り方をめざすものです。

 「そんなことが本当に可能なのか?」

 そう思いませんか。
 フジノも「ムリだろう」と考えてしまいます。

 そんな中、まさにこの『修復的司法』を実際に体験している方々の
 生の声を聴けるとても貴重な機会がありました。

 今日は白鴎大学法政策研究所が主催する
 バド=ウェルチさんとトシ=カザマさんをアメリカからお招きしての
 犯罪被害に遭われた方々の復権について
 勉強会がありました。

 ウェルチさんは愛する娘を殺された被害者のご遺族として、
 カザマさんは死刑囚を撮影しつづける写真家として、
 犯罪被害の当事者の立場でありながら
 お2人はそれぞれに死刑廃止を訴えています。

 (お2人はふだん一緒に活動をしているのではありません。
  今回あえてお2人を同時にお招きしたというだけですね)

 犯罪被害に遭われたご遺族や当事者の立場にある方が
 その犯人の死刑廃止を訴えるなんて、何故だ?

 と思いませんか。

 でも、『応報的司法』は被害者の方々の為にならない、
 という学説もどんどん増えてきました。

 犯罪被害に遭われた方々の支援の強化を
 政策として目指しているフジノは
 「何が本当に被害者の方々にとって意味があるのか」を
 知らなければなりません。

 そんな訳で、栃木県小山市にある白鴎大学は
 フジノにとってかなり遠かったのですけれども
 こんな貴重な機会を逃すわけにはいきません。 

白鴎大学東キャンパス  そこで
 小山にある
 白鴎大学の
 東キャンパスへ
 行ってきました。


(つづく)




2007年11月2日(金)のフジノその2
● テロの犠牲者のご遺族が、犯人の死刑をあえて拒否した(その1)

 さて、白鴎大学東キャンパス5階の会場では
 法政策研究所の関係者の方々と法学部生・院生の方々が
 参加されていました。

 外部から参加していたのは、
 フジノの他には、司法で働く方々ばかりでした。

バドさんとカザマさん  座っている
 2人の内、
 左が
 バドさん、
 右が
 カザマさん。

 お2人の紹介の後、さっそく講演が始まりました。
 さて、本当のプログラム順ではカザマさんがまずお話されたのですが
 このHPでは先にウェルチさんのお話を紹介したいと思います。

 ここから先の文章は、全てフジノのメモをもとに作成したもので
 ウェルチさんがお話した一言一句が再現されているものではありません。

 内容を誤解していたり、誤りがあるかもしれません。
 それらは全てフジノに責任がありますので、ご了承ください。

 ●

 私はバド=ウェルチといいます。

 アジアに旅するのは初めてです。
 今日みなさんに、私のたった1人の娘であるジュリーについて
 知っていただきたいということでお話をします。

 ジュリーはオクラハマシティーの
 連邦ビル爆破事件で殺されました。

 (フジノ注:1995年4月19日、オクラホマ州の州都オクラホマシティで
  連邦ビルが爆破され、こども19人を含む168人が殺されました。
  犯人はティモシー=マクヴェイと共犯のテリー=ニコルスの2人。
  湾岸戦争に出征したマクヴェイは、
  アメリカ政府に対する憎しみと復讐心からテロを決行しました。
  マクヴェイは死刑判決を受け、インディアナ州の連邦刑務所で
  薬物注射によって処刑されました)

 その時はとてもみなさん幼かったと思うのですが
 覚えている方はいらっしゃいますか?

 (手を挙げたのはフジノの他、数名だけでした)

 ジュリーは市の公立学校に通っていました。
 8年生の時にメキシコからの交換留学生と出会い、親友になりました。
 彼女がわずかの期間に英語を話せるようになったので
 その速さに驚きました。

 そしてジュリーも彼女との交流をきっかけに
 スペイン語を学び始めました。他にもいくつもの言葉も学び始めました。

 ジュリーは外国語の奨学金をとるための試験を受けました。
 スペインという国について理解する、という目的の奨学金です。

 その試験に合格したジュリーは
 メキシコに2年間留学しました。ホームスティです。

 けれども、スペインに着いてからジュリーは
 自分のスペイン語のスキルがまだまだ全然足りないと思いました。
 特に、ホストマザーが英語が分からなくて
 なかなか意思疎通がうまくいかず、よけいにそう思いました。

 ジュリーが暮らしていたのは、ポルトガルとの国境近くでした。
 ホストファミリーの親戚は大半がポルトガルに住んでいました。
 そこで休日になるとジュリーは、
 ポルトガルによく行きました。

 こうしてスペイン語だけじゃなく、ポルトガル語も習得しました。

 その後、オクラホマに戻って高校を終えました。
 卒業後はミルウォーキーのマルケル大学に進学しました。

 ここでも彼女は外国語のコンテストで
 とても優秀な成績をおさめて奨学金を受けました。

 コンテストを受けた91人の中で
 彼女は合格者の1人になりました。

 このおかげで学費の半額を奨学金で支払ってもらえたのです。

 ジュリーは、大学2年目にスペインに戻って過ごしました。
 マルケル大学はスペインのマドリードに分校を持っていたのです。

 やがて1994年に大学を卒業しました。
 スペイン語、フランス語、イタリア語の学士号を取りました。

 卒業後、ジュリーはオクラホマシティに戻りました。

 スペイン語の実力が高く評価されて、
 社会保障局の職員に採用され、スペイン語の通訳の仕事を得ました。
 連邦機関の仕事です。

 働きはじめて2週間が経った頃、
 空軍基地内のカトリック教会で中尉のエリックに出会いました。

 ジュリーとエリックは7ヶ月間交際しました。

 ジュリーが亡くなる2週間後に
 本当は婚約を発表するはずだったとエリックから聞かされました。



 爆破は水曜日の朝に起きました。

 ジュリーは9時に、英語を話せないスペイン人と会う約束をしていました。
 社会保障局で手続きを行なう手伝いを行なう為です。

 ジュリーのオフィスは1階の奥にありました。
 そして、担当者のオフィスにスペイン人のクライアントと向かいました。

 爆発は9時2分に起こりました。

 水曜日に爆破が起こって、
 ジュリーとスペイン人のクライアントの遺体は土曜日に見つかりました。

 3000kgの爆発でした。

 爆破の後で残ったのは歩道だけでした。
 たくさんの人々が亡くなりました。

 私は自分の人生を通して死刑に反対でした。
 死刑は成すべきではないと信じていたからです。

 しかしジュリーがなくなるまではそのことについて
 本当に試された訳では無いと感じていました。

 私は、自分の中の復讐心と葛藤していきました。
 1年が経っても爆破犯人の2人に死刑を望んでいました。

 加害者のひとりはティム=マクヴェイといいます。
 もう1人はテリー=ニコルスといいます。

 彼らがテロを起こしたのは、アメリカ政府に怒りを抱いていたからです。
 2人とも湾岸戦争の時に軍隊にいました。

 戦後アメリカに戻ってきて、
 多くの命が失われた為に怒りを感じていたのです。

 ベトナム戦争で多くの兵士が受けたのと同様の
 深いこころの傷と幻滅を抱き、
 自分たちを戦地に送り込んだ政府を恨みました。

 不幸なことに同じように多くの兵士たちが
 怒りの感情を持ってアメリカに戻ってきました。

 1993年にテキサス州でカルト宗教団体(ブランチダヴィディアンズ)が
 FBIによって焼き討ちをうけたという事件がありました。
 彼らを50日間にわたって包囲していたわけです。

 何故かというと、このカルトのリーダーを逮捕したかったからです。
 宗教集団は武装していました。

 そこでFBIは戦車部隊を突入させて、立てこもっていた信者の
 86名の男女とこどもが焼死する事態になりました。

 2人の加害者は、この事件に対してアメリカ政府に対して
 さらに怒りを感じました。

 それが爆破を計画した動機なのです。

 2年後の1995年4月19日、彼らは連邦ビルを爆破したのです。
 4月19日は、このテキサスで86名が焼死させられた事件の
 2周忌だったのです。

 この2つの悲劇は4月19日に起こったのです。

 はっきりとテロの動機を理解した時に
 私は復讐について理解しはじめました。

 私の復讐の方向を違う方向に向けていったのです。


 (つづく)


2007年11月2日(金)のフジノその3
● テロの犠牲者のご遺族が、犯人の死刑をあえて拒否した(その2)

 その理由として、爆破が起こったすぐ後に考えたことを
 常に忘れないようにしておこうと思っています。

 あるテレビ番組で、爆破犯であるティムの父に
 インタビュアーがなされていました。

 父のビルは、レポーターたちに群がられていました。

 彼は決してテレビカメラの方を見ることがありませんでした。
 見ることができなかったのだと思います。

 彼とインタビュアーの間で
 どんな質問がなされたか
 どんな答えがなされたかは覚えていません。

 でも、ビルは最後の質問に対する答えの時に
 初めてテレビカメラを見つめながら答えたのです。

 それはわずか数秒間のことでしたが、
 私は大きな痛みを感じました。

 彼の目の中に大きな痛みがあるのを感じたのです。

 その痛みを私は理解しました。
 何故ならば、私も同じように生きていたからです。

 私はそんなビルの姿を見た時にも
 犯人であるティムに死刑を望んでいました。

 でも、いつか父のビルに会って、
 「あなたのことを心配している」と言いたかったのです。

 私は彼の息子がしたことで
 ビルを責めようとは思いませんでした。

 ●

 爆破から3年後、電話をもらいました。

 NYのバッファローに暮らすシスターから、

 「死刑廃止について語ってほしい」

 という電話でした。

 その時点において私は2年間にわたり
 あらゆる場所で死刑反対を語ってきました。

 シスターに語りました。

 「もう3年以上前に父親のビルを見たんだ。
  彼が感じていたであろう感情を理解できる」

 と私は言いました。

 「あなたはビルと会うべきです」とシスターは言いました。

 そこで私は3ヵ月後にバッファローを訪れた時に、
 ビルと会うことになったのです。

 5日間講演をして、6日目にビルに会うことになりました。
 最後の講演は金曜日の夜でした。

 講演を終えた私のもとに2人の男性がやってきて
 自己紹介しました。

 2人ともビルを知っているといいました。
 彼の性格や人柄について質問しました。
 翌日にビルと会うことになっていて
 私はとてもナーバスになっていたからです。

 2人から「ビルはとても静かな男の人で無口だ」と言われました。
 「彼の趣味は庭いじりだ」と言われました。

 土曜日、ビルの家を訪れてノックをした時に、
 男性が出てきました。

 彼がビルでした。
 私は自己紹介してビルに「良い庭ですね」と伝えました。

 彼は大きな微笑をかえしました。
 私はビルに会ったらまず彼の庭の話をしようと考えていたのです。

 その微笑を見て、
 ビルがその庭をとても誇りに思っていることが分かりました。
 そして、その庭に案内してくれました。

 2人に共通点があることを感じました。
 30分間、その庭で過ごしました。

 ジェニファーという一番下の娘がいることを教えてくれました。
 彼女は私に会いたがっているということでした。

 私は裁判所で何度も彼女の姿を見かけていましたが
 話した事は1度もありませんでした。

 そこでビルは、キッチンで
 ジェニファーを紹介してくれました。

 キッチンの壁には、家族の写真がありました。

 3人でテーブルについて5分ほど話した後で
 自分の右側にある1番大きな写真に気づきました。

 それは爆破犯であるティムの写真でした。

 会話をしながら私はその写真を見ずにはいられませんでした。
 何度もその写真を見ました。

 怒りをもってみていたのではなくて、
 「理解できない」という想いで見ていました。

 何故、167人の人を殺して、
 かつジェニファーを殺したのか、
 理解できない、という気持ちで見ていました。

 何度も何度もティムの写真を見ていました。

 ビルとジェニファーもそれに気づきました。
 そのたびに彼らは私を見ました。

 私は、何かを言わねばならないと感じました。

 「おや、彼はなんて素敵なこどもなんだ」

 と私は言いました。
 静けさが訪れました。

 ジェニファーを見ると、何も言いませんでした。
 目をテーブルに落としたままで。

 ビルも同様でした。

 ●

 庭にいる時に彼は私に1つの質問をしました。

 「バド、きみは泣けるかい?」
 「もちろん泣けるとも」

 私は答えました。

 「ビルは、私は人生を通して泣けないんだ」と彼は言いました。
 「僕の父親もそうだったんだよ」と彼は続けました。

 「私はこの3年半泣きたいことがたくさんあったんだけど
  どうしても泣くことができなかったんだよ」

 と彼は言いました。

 ●

 ビルの言葉によって
 長い沈黙が終わりました。

 「この写真は高校卒業の時の写真だ」

 とビルが言いました。

 その時、大きな涙が彼の瞳に流れました。

 その瞬間、彼は自分の息子の為に泣けるのだと感じました。
 息子のティムはコロラドの刑務所に
 死刑宣告されて入っていました。

 ビルは息子のティムに何かをしてあげたいと感じていましたが
 何もしてあげられることはありませんでした。

 私たちは会話を終えて
 立ち上がってビルの手を握りました。
 ジェニファーもまた手を重ねました。

 ジェニファーは私にハグしました。
 我々はお互いに涙を流しました。

 そこで私たちは声を出して泣きました。
 大人になってからこんな体験はありませんでした。

 長い時間を過ごした後、私はそこにとらわれたような気になりました。
 次にどうしたらいいか分からなかったのです。

 彼女の顔をそっと私の前に持って行きました。

 「私たち3人はこんな風にとらわれてしまっているのかもしれない」

 とジェニファーに語りかけました。

 「でも、望めばこの状況を変えていくことができるんだよ」

 と伝えました。

 「私はティムに死んでほしいと思っていない。
  できることを全てしたい」

 と伝えました。

 私は外に出て行こうとする瞬間、とても孤独を感じました。

 ふりかえるとビルとジェニファーはまだ台所にいました。

 ジェニファーはまだ泣いていて
 ビルは何を次に言えばよいか分からない
 というように途方にくれていました。

 私は手をふりながらさよならと伝え、彼らも手を振りかえしました。

 ●

 バッファローに戻ってシスターに会いました。
 シスターがいるのは希望の家という教会です。

 希望の家というのは、更生保護施設(ハーフウェイハウス)です。
 2人のシスターが居間にいました。

 私はそこに到着した時にもまだ涙が出ていて、
 何かへの経過の途中にあるように感じていました。

 突然、私の肩にかかっていた重責みたいなものが
 開放された気持ちがしました。

 そう感じた理由は、まさに土曜日の朝、
 私以上のオクラホマビルの被害者に会ったからです。

 私は世界各地をまわってジュリーの素晴らしさを話しています。

 私はそうすることでジュリーを今日まで12年間にわたって
 生かせることができました。

 一方、ビルは毎朝、現実と出会います。
 息子がジュリー=ウェルチと167人を殺した、
 という現実についてです。

 ビルは毎朝ひどく困難に違いません。
 私より6ヶ月若いだけのビル。

 2006年にティム=マクヴェイは死刑になりました。

 死刑の朝に起こったことは、私に何も平安を与えませんでした。

 もう1つ起こったことは、
 2人の父親は1つの共通することが起こったということです。

 2人とも自分のこどもを埋葬したということです。

 こどもたち2人の死に方は違いますが、
 親である私たちは2人ともこどもを埋葬したのです。

 私の母は2年前に亡くなりました。
 丘の上に埋葬しました。
 でも、こどもが亡くなった時は
 丘の上ではなくてこころの中に埋葬することになります。

 ジュリーはテロで亡くなる前、強く死刑に反対していました。
 私自身はジュリーが亡くなる前には
 決して死刑反対の活動家ではありませんでしたが、
 ジュリー自身は活動家でした。
 彼女は政府の役所の前でデモを3度行いました。

 ジュリーは16才の高校時代から
 アムネスティクラブに属していました。

 その活動団体は今も続いていて
 まもなく創立20年を迎えます。

 もしジュリーが今もいたならば
 平和の白い旗を掲げたでしょう。
 でも、彼女はもう今は旗を掲げることができないわけです。

 だから彼女のかわりに、私がその旗を掲げ続けるのです。


 (バド=ウェルチさんと会場の参加者との質疑応答)

 Q.加害者本人に会っていたらどんなことを話したかったですか?

 A.私はティムに会いたいと考えて、
  死刑の3ヶ月前にアレンジメントをしました。
  ティムは私が死刑反対であることを知っていました。

  その時、ティムは死刑執行を止める為の全ての上告をやめていました。

  もし会えていたら、ジュリーの写真を掲げて彼に会いに行きたかった。
  彼には「理解できない」と伝えようと思いました。
  ティムは、ジュリーのたった3才上なんです。

  どうして連邦ビルを爆破したのか。
  つまり何故人を殺さねばならなかったのか、と伝えたかったです。

  もう1人の犯人であるテリー=ニコルズは
  死刑宣告を受けませんでした。

  私は彼には会いましたし、電話で何回も話しました。
  彼は自分の犯した罪に対して有罪を認めています。

  12の家族がテリー=ニコルズと手紙などで連絡をとっています。
  全ての家族が復讐の気持ちを捨てて
  和解や癒しのプロセスに役立ったと語っています。
  そしてテリーは許しを求めました。

  オクラホマ州はなんとか彼を死刑にしようとしたのですが
  私は犯人側の為の証人として法廷に出ました。
  他にも5家族が証言をしました。
  「彼を処刑しないでほしい」と訴えたのです。

  アメリカの裁判ではまず有罪か無罪かを決めて、
  次に量刑を決めます。

  私はこの量刑を決める場で証言をしました。 
  「死刑にすべきではない」と訴えました。

  アメリカは12人の市民からなる陪審員制度を持っています。
  陪審員は12対0という全員一致の場合においてのみ
  無罪を出せるのです。

  同様に、死刑の場合も12対0の場合においてのみ
  可能なのです。

  死刑については8対4という結論になりました。
  彼はこうして無期懲役となりました。
 

 Q.あなたはティムに対して死刑を望まなかったと言いましたが
  死刑を望まずにもし終身刑だったら
  どのようにティムに償って欲しかったと思いますか?

 A.直接話したかったのは、私たち家族に何をしたかということです。
  私の国では修復的司法という制度が行なわれはじめていて
  多くの被害者はいろいろな意味で
  加害者と出会うことによって癒されるのです。


 Q.何故人は人を殺すのでしょうか?

 A.たぶん、復讐の気持ちが最大でしょう。

  第2に犯罪に喜びを持つゆがんだ人たちがいるのでしょう。
  嫉妬心から犯罪に及ぶという人もいるかもしれません。
  マフィアのようにおカネのためだけに人を殺すと言うこともあるでしょう。

  しかし、政府は復讐の為だけに処刑を行なうのです。
  処刑されたならば、被害者感情が癒されると政府に言われる訳です。
  それが大きなウソです。

  私たち人間というのは、
  ふつうの人間が他人の命を絶って気持ち良くなるようには
  作られていないと思います。

  もしも今、交通事故にあった犬を見て、
  あなたはうれしいでしょうか?

  これが人間の場合も同じです。

  ブッシュは他の国に戦争をしかけたり多くの人を殺すでしょう。
  逆に、NYがテロをされた理由もまた復讐です。

  外交政策においてアメリカが行なったことによる復讐が
  9.11です。
 
  もしも復讐と言う気持ちが無ければ
  もっとこの世界は良い世の中になると思うのです。

  私の祖父は真珠湾攻撃で殺されました。
  私の前妻はわずか生後3ヶ月の時に父が殺されました。
  彼は自分の赤ちゃんを見ることができなかったのです。

  そのリベンジがヒロシマ・ナガサキに原爆を落としたのです。
  とんでもないひどいことです。

  爆弾を投下した時に私は6歳でした。
  1945年8月の1ヵ月後に1年生に入学をしました。
  2つの爆弾をアメリカが落としたことをとても恥だと感じました。

  先週ヒロシマを訪れて鎮魂に赴きました。

  来年もし日本を訪れることができたら
  ナガサキを訪れたいと思います。

  もしあなたがオクラホマシティーに来ることがあれば、
  ぜひ連邦ビルの記念碑を訪れてください。
  ジュリーの写真が記念館にあります。

  私がここに来てみなさんにお話している理由には、
  みなさんの復讐という気持ちを無くしたいのです。

  その気持ちの流れの中に
  死刑というものがなくなって欲しいという気持ちがあります。


 Q.修復的司法に対して日本の被害者は嫌悪感を示しているけれども 
  どうやって説得していくのでしょうか?

 A.被害者家族で修復的司法を受け付けない人々を知っていますが
  そういう家族を後押ししている人々がいるのではないでしょうか。

  それは、例えば検察などです。

  そういう人々はミスリーディングをしていて、
  被害者家族の癒しのプロセスを否定しているのです。

  修復的司法について懐疑的な方々に対しては
  癒しの過程に入ることができた被害者の家族が
  語りかけていくことが必要だと思います。

  癒しの過程が良い方向に行くように。

  被害者側が知るべきことは、
  加害者側もまた人間であるということだと思います。

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 こうして、バドさんの講演は終わりました。
 休憩時間になりました。

 僕はバドさんに近づいて
 「1つだけ質問をよろしいですか?」と尋ねました。

 「どうぞ」と彼は微笑みました。

 「僕はどうしても加害者を赦すことができません。

  あなたのお話をうかがっていると、
  自分が人間として劣っているように感じます。

  逆にあなたのことを人間としてステージが高い位置にあるというか、
  僕とは別の次元の高いところにいるというような
  気持ちさえ抱きます」

 彼は再び微笑みながら、
 僕に答えました。

 「高い次元なんてことは無いよ。
  私はただのふつうの人間だよ。
  そしてあなたが劣っているということだって無いんだよ」

 サンキュー、と僕は答えて
 バドさんと握手をしました。

 僕は、どうしても理解できない気持ちのままで
 会場をいったん出ることにしました。

 白鴎大学の
 5階から
 小山駅を
 見た景色。

 会場のある栃木県小山市は小雨があがって
 静かな空気の夕方を迎えていました。

 バドさんはカトリックということもあって
 宗教的な赦しという信念が背景にあるのだろうか、と
 僕は考えながらエレベーターに乗りました。

 自動販売機のあるフロアに着いて
 缶コーヒーを買い、外を眺めながら飲みました。

 もしも僕に娘がいたとして
 そして、とてもその娘を愛していたとして
 娘を殺した犯人を赦すことができるだろうか、と
 僕は考えました。

 バドさんは、いつも11時に待ち合わせをして
 ジェニファーさんと昼食をとることにしていました。

 爆破が起こったその日もまた
 いつもと同じように
 11時に待ち合わせをしていました。

 けれども待ち合わせが叶うことはありませんでした。
 そしてこの先も2度とやってくることはありません。

 愛する娘を殺されて、殺した相手を赦す。
 あるいは、殺した相手との対話を通じて癒しが得られる。

 そんなことが果たしてあるのだろうか。

 やがて僕は缶コーヒーをゴミ箱に捨てると
 再びエレベーターに乗って、会場へと向かいました。



2007年11月5日(月)のフジノその1
● おっさんの動きを、いちいち気にするな

 時事問題を評論家のように語っている
 ブログがあまりにも多すぎて情けなくなってくるよ。

 僕はそんなことバカバカしくてやらない。
 時間のムダだから。

 おっさんが辞めようが辞めまいが
 そんなのカンケーねえ、ハイ、オッパピー♪、でしょう?

 こんな話題が出るたびにマスメディアや古い世代のヤツらに踊らされて
 「政治離れが加速する」とか「がっかりさせられた」って
 コメントするなよな。


● 上の世代に期待なんてするな、変えるのは僕たちの世代だ

 特に若いヤツら。

 いつからそんなに上の世代に期待するようになったんだよ。
 だらしない。情けない。みっともない。

 僕は1度も上の世代に期待したことなんか無い。

 こんな腐った現実は
 僕たちの世代が変えるんだろ?

 上の世代のアホらしさなんて
 昔からイヤというほど見てきたんだから、笑い飛ばせよ。

 僕たちは、上の世代にいちいちふりまわされない。

 古い政治屋がぐだぐだやって世の中をどんどんダメにしてきたけど
 そんなダメなものを毎日見せられているから
 僕は何も期待なんかしていない。

 だけど、絶望だってしない。

 上の世代のくだらなさを反面教師にして、
 僕たちの世代は同じことは絶対にやらない。

 いちいちメディアにふりまわされるな。
 上の世代のバカさかげんを言い訳にするな。
 この世界を変える努力から逃げるな。
 口先でごまかすな。あきらめるな。行動しろ。闘え。


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