まちの政治家は、こんなことしてます |
2008年5月28日(水)のフジノ |
● 『リカバリー』を日本でも当たり前にしよう 今日は、お昼から鎌倉の生涯学習センターへ。 NPO青い麦の会とNPO地域精神保健福祉機構(略称コンボ)の 主催による講演会 『語りたい 私のリカバリー 精神障がいと共に社会に生きるアメリカからの報告』 に参加する為です。 『リカバリー』というのは、精神保健福祉の世界で 最も大切な『人間の根っこ』についての考えのことです。 『リカバリー』とは何かを説明するとすごく長くなってしまいますので、 今日配られたプログラムがとても参考になりますから ぜひ読んでみて下さいね(こちらをご覧下さい)。 あえてフジノ流にひとことで言うならば 人はみんな絶対に元気になれる! です。精神障がいがあろうが無かろうがカンケーない。 絶対にみんな元気になれるよ、というのが『リカバリー』です。 今日の講演そのものがこの『リカバリー』について 実際の体験を聞きながら理解を深めるのが目的で行なわれました。 アメリカのロサンジェルスは『リカバリー』の本場なのですね。 今日は、なんとそのロスから2人の精神障がいのある方々を お招きして体験の発表をしていただきました。 日本の精神障がいのあるご本人に ぜひたくさんの方々にお話を聴いていただきたいと機会でした。 (横須賀から、つばさの会の方々や夢喰虫の方々が来てくれてまいした。 本当に良かった!もっともっとたくさんの方々に聴いてほしいなぁ) ----------------------------------------- まず、プログラム1。 ハンドベルとリングベルの演奏です。 素敵な音色でした。 ● リカバリーをすすめる為に『ビレッジ』を日本にも! そして、プログラム2。 厚木市家族会『フレッシュ厚木』理事の上森得男さんによる 『プロジェクト・リターン』についての紹介です。 上森さんは厚木家族会の理事、というよりも フジノにとっては、『ビレッジの上森さん』です。 『リカバリー』を語る上で欠かせないのが 『ビレッジ』という場の存在です。 2005年11月に全家連大会の会場で 上森さんと初めて出会ったその時から 「フジノさん、日本にもビレッジを作らなければいけない! 神奈川ビレッジを作る活動をしてください!」 と熱く語られて、その想いに賛同してきました。 それからも上森さんの熱い活動は続き、 かたやフジノは神奈川ビレッジ実現のお手伝いは何もできず...。 上森さん、政治家として力不足でごめんなさい。 ええと、話を戻しますと、その上森さんが まず『リカバリー』や『ビレッジ』や今日の講演をなさるお2人について 紹介をしてくれました。 まずお1人目は、エミー・シングソン・ミナミさん。 結婚して2年だそうです。 パワーポイントに映っているのが、だんなさまのグウェンさん。 そして、昨年から新たに家族になった、かわいい犬。 お2人目が、マリコ・オクモトさん。 アメリカ在住なのですが、お名前のとおり ご両親が日本人で、英語だけでなく日本語も得意な方でした。 この後、アメリカの中でロサンジェルスがどういう位置づけなのか、 また、ロスにおいて 『プロジェクト・リターン』『ビレッジ』がどのような位置づけなのか、 組織の在り方や、財政の在り方、などについて紹介がありました。 特に、上森さんが現場を見てきた『ビレッジ』については 詳しくお話がありました。 『ビレッジ』についての上森さんのお話で、 特にフジノの印象に残ったのは... ドクターが精神障がいのある方のお話を 30分くらいかけてじっくり聞いている。 薬についても詳しい説明をしている。 いろいろな薬の説明の後、「あなたが決めてください」と、 本人がそうした選択肢の中から自ら薬を選択して決めるのです。 ここがまず出発点として大きなことです。 当事者が自分で自分の薬を選び、体験して、 体験の中から「このクスリは自分に適しているかどうか」を 次回ドクターに報告できるんです。 こういう細かな医療の配慮、自立心を養う根本、 アメリカの医者はひとつ我々に大きな見本を示していますね。 これがまさに『ビレッジ』を表す象徴的なお話だと フジノは考えています。 どこまでも徹底的に、当事者・当事者の家族の立場にのっとった やり方だと思うのです。これがヴィレッジなのですね。 早く『神奈川ビレッジ』を実現しなければ、と改めて思いました。 かつて上森さんは『ビレッジ』の精神科ドクターを 厚木にお招きしたことがあるのですが 1度、ドクターに断られているんです。 その理由がすごいんです。 「日本になんか行ってるよりも、私はビレッジで 当事者の方々のそばで過ごしたいから」 ドクターの鏡ですね。 ● リカバリーを実現している方々のお話は素晴らしかった さて、ここからが本番です。 プログラム3は、エミーさんとマリコさんのお話です。 まずは、エミーさんのお話です。 (ここから先は、英語での講演を翻訳したものをお聞きしながら フジノが会場で急いでメモしたものなので、 正確ではない部分がたくさんあると思います。 あらかじめ、ご容赦ください) 私は1960年、フィリピンのマニラで生まれました。 兄弟姉妹あわせて9人いました。 25才で大学を卒業した後に精神疾患があることに気づきました。 統合失調症だと診断されたのは25才でしたが 自分で自分の状態が良く分からない という気持ちになることは幼い頃からありました。 学校は大キライでした。成績は中くらいでしたが、 兄弟たちは国立大学に入学していて 父は私のことを 「お前は成績が良くないから兄弟みたいには進学はムリかなあ」 と、よく言われました。 マニラのある大学受験に失敗した時に、自殺未遂をしてしまいました。 あの時の状態を思い出すと、本当に耐えられない状態でした。 別の大学に入学したのですが、 大学3年の時に、落第をしました。 成績もどんどん下がっていき、レポートも出せないのです。 そんなことは以前には1度も無かったのに。 もしかしたら、病気が進んでいたのかもしれません。 一体自分はどうなってしまったんだろうか という戸惑いでいっぱいでした。 アジア社会では、学歴が重視されます。 私は落第してしまった為に 卒業が同級生よりも遅れてしまいました。 大学時代にすでにとても困っている状態だったのに 正直に家族には伝えることができませんでした。 小学校入学から大学に行くまでの間、 どうも父の期待を裏切っていたように思います。 でも、今思えば、 大卒の学位を教養のしるしにしたかっただけなのかな、と思いいます。 アジアの家族には「学位を必ず取らねば」という傾向が強いと思います。 私にはそれがイヤでたまりませんでした。 小さい頃からうつ状態に陥ることが多かったのですが、 それを胸に隠して家族に伝えることができませんでした。 みなさんにドクターから診断を受けたことのお話をします。 私が育ってきたフィリピンの社会では、 精神疾患を持っていることそのものが受け容れられないのです。 つまり地域でのおちこぼれであって、望まれない人間でした。 精神疾患についてもタブーで語ることが避けられていました。 話題にすることさえもタブーでした。 私が統合失調症だなんて、とてもまわりに言う事はできませんでした。 自分だけの殻の中に孤立していました。 私が原因で、家族がみんな恥をかいたり偏見の対象になったり というのは耐え難いので、私のこころの中にはいつも 「いつ自殺をすべきか」という考えしかありませんでした。 アジア地域の人々の中では、 精神病とは人間がかかりうる壊滅的な病気だと考えられています。 この病気になったら この人は最悪の状態に入った人間だとみなされてしまいます。 アジアではこういう風にみなされることが多いのです。 ドクターも含めた治療者の側も、 精神疾患をまるで伝染病のように扱ったりするのです。 まるで、何とかして防御しなければならない ウイルスのような態度で精神疾患を扱うのです。 医療側さえこういう態度なので状況はますます悪くなっていきます。 信じていただけるか分かりませんが、 世間の人々は私のことを 悪魔がのりうつっていると本当に信じていました。 「自分は悪魔になってしまったんだ」と思うと 朝起きて自分の鏡を見るのが本当に怖かったです。 親しかった友達もみんな離れていきました。 まちを歩いていると、その先の家のドアが閉まっていくのです。 働くこともできない、友達もいない、 人間関係も維持できない、結婚もできない、 哀れな病人で何1つできない、とレッテルを貼られていました。 いろいろな症状はあったけれども 躁うつ病になった時には、 「あのこは麻薬をのんでいるんだ」と陰口を言われました。 でも、私は麻薬そのものを知らなかったんですよ。 家族は 「お前が精神病になったのは、 兄や姉のように学業の成績の能力が無いからだ」 と言いました。 お母さんに心配をかけたくない気持ちが強くて、 家族の者は、母に向かって私の病気のことを完全に隠していました。 もしもお母さんが知ったならば、 体が弱いので、忍耐できず早死にしてしまうのではないかと 家族は考えたのです。そんな雰囲気にあって、私は孤立状態でした。 もちろん専門家のカウンセリングなども受けていましたが、 全然役に立ちませんでした。 フィリピンの精神科医は、 「あなたは小さい頃からつらいめにあってきて 積もり積もってフラストレーションになっているから この病気になっているんだよ」 という説明をしました。 「あなたの病気は家族が原因だ」と、ドクターは言いました。 地域社会は病気の原因として「悪魔のせいだ」「家族が悪い」などと 言いましたが、どれもこれも私には耐えられないことばかりでした。 それでも友達に神父さんがいたので それでも何とか治りたいと想い続けてきました。 神への信仰は 昔も現在も私にとって大切なものです。 神がいてくださるからこそ、私は生きる希望と力を得ることができました。 私を傷つけた人々を許すことができました。 神は愛であるからです。 私は祈ることで確かに救われました。 しかし祈りを続けているとあることに気づきました。 この統合失調症に屈服しないで生きていこうとするならば 祈るだけじゃなくて 何らかの行動をしなければいけないのではないかと考えました。 私のその想いがだんだん強くなっていきました。 自分は病人である前に 1人の個人であると証明する機会がめぐってくるならば これから先、もっと生きがいのある生き方ができるのではないか と思いました。 母が亡くなる前に手続きをしてくれていて、 1994年、私は渡米しました。 このアメリカで 初めて私は精神病の本質を教えてもらったんです。 精神病というのは、 「何かが積み重なったフラストレーションの塊」ではなく、 「人生で悲しいことが積み重なったから起こる」のではない。 どちらも間違っています。 そうではなくて 「脳の中に持っている化学物資がバランスを欠いた」 「そうするとこういう風な病気になるんだ」 と言う真実を初めて知りました。 精神病は全く誰の責任でもない病気なのです。 私が25才の頃、脳内バランスを崩しやすい傾向にあったんです。 青春期は本来なら人生の夢に満ちる時期です。 本来なら25才くらいの青春期は 人生に挑戦していこうという勇気と意欲にあふれ 人生に意味があると向かっていきたいという時期ではありませんか。 私は本当にアメリカに来て、 まさに初めて次のことを学びました。 精神疾患に対する最も効果のある治療法とは 3つのものから成り立っています。 1つは適切な服薬、 2つ目は心理−社会的な観点にたつリハビリテーション、 3つ目は仲間、ピアサポートです。 この3本柱を組み合わせているうちに、 元気になり、ひとり立ちができるようになってきました。 でも何よりも先に私が理解したことは、 病気からの回復を願うのであれば 自分の存在を否定することをやめて、 人に助けを求めることが大事だと思いました。 1994年アメリカにやってきた時、 カリフォルニア州の コースタルアジアンパシフィックメンタルヘルスセンターで ちゃんとした治療とリハビリを受けることができました。 1996年には、自分がだんだんと 地域の生活になじんでいく形になっている、自信を取り戻して 自分は幸せだなあと感じられるようになってきました。 私としてはやってみたいことをやれる、 やりたいことをやることができると思えるようになりました。 私は成功したと思いました。 精神障がいがある、という診断が出たとしても 私は自分が人より劣った人間だとはちっとも想いません。 自分の目指すことをやりとげて 人生に変化をもたらしていくことは楽なことではありませんでした。 でも、私は夢を抱く人間になってきました。 自分の可能性を信じてみようという自分に変わりました。 今の私はリカバリーコーディネーターという仕事にたずさわっています。 サウスベイ(彼女の在住地)には 13〜15の自助組織がありますがそのリーダーです。 250人の当事者の方々のお世話係をしています。 現在は、精神障がいのある方々の 就労のスペシャリストとしての正式な資格をとろうとしています。 2006年にだんなさんと結婚をして、 1年後にかわいい犬を飼いました。 こころが満ち足りた状態、仕事、人々とのおつきあい、 これらを手にすることが 病気回復への欠かせない要素です。 私たちには自分の回復に向けて 進んでいくという自己責任があります。 病気が良くなってきたら 私たちは地域社会に対しておかえしができるようになります。 まだ良くなっていない、良くなりたいと思っている方々、 つまり仲間に、自分のできることをさせていただくべきです。 長くなりましたが私の話が 精神疾患に関するみなさんのご理解につながっていけばうれしいです。 --------------------------------------------------- 続いて、マリコさんのお話もありましたが このHPではスペースのつごうで省略させていただきます。 お2人とも、すごく素敵なお話でした。 『リカバリー』ということは、まさに今のお2人の状態なんだな、と 感じました。 その後、プログラム5として、 会場内との質疑応答がありました。 エミーさんマリコさんと会場の参加者の方々の間で、 活発な質疑応答がありました。 例えば... Q.日本では一般的な意味での統合失調症の理解は 以前よりは進みつつありますが、 知識としての理解を超えていないのですが、どう思いますか? A.その通りだと思います。 知識としては理解しているかもしれませんが 目の前に精神疾患がある人がいる時に その人がどんな人かということよりも どんな風に観られるのかという感情面での問題が依然としてあります。 アメリカではスティグマバスターといって、 スティグマを無くして行こうという動きが始まっています。 ふつうであるということを証明する為に 日常生活の中で訓練をしています。 1つの例を申し上げますと、 私は4〜5年ボランティアをしています。 私が変われるということを証明して 人々の偏見のシステムを変えたいと思います。 などなど。 手はまだまだあがっていましたが、 時間のつごうで打ち切りとなりました。 それはそうですよね。 だって、お2人とも本当に元気いっぱいなんです。 一般的な日本の精神障がいのある方々の姿とは全然違うんです。 聞きたいこと尋ねたいことがたくさん出るのは当然です。 もっとこういう機会を徹底的に増やさなければ、とフジノは感じました。 横須賀にもぜひお招きして、リカバリーの講演をやりたいです! 最後に、主催者であるNPO地域精神保健福祉機構(コンボ)の 桶谷さんからお話がありました。 桶谷さんのお話もすごく印象に残りました。 20年前、海外からゲストを呼ぶとしたら、ドクターでした。 10年前だったら、家族会活動をしている人をお招きしました。 今は、当事者の方をお招きできるようになりました。 今日は、お医者さんもいない、 当事者の方々だけで語るシンポジウムが開けました。 やはり時代が動いているのを感じました。 今後は当事者の方々が主体的に生きていける社会を 作っていこうということをコンボのミッションとして考えています。 うーん、本当にその通りだと思いました。 この2年くらいは、当事者の方々による講演会に行く機会が フジノも増えてきた気がします。 かつて精神保健福祉に関わり始めた16年前には そんなことは考えられませんでした。 政治家として個人として フジノはそんなNPOコンボの活動を全力で応援していきます! 当事者の方々が主体的に生活できる社会の実現に向けて 一緒にがんばっていきましょうね! ● 「フジノさん、ロスへ来なさい。約束ですよ」 講演会が終わった後は、会場を変えて懇親会です。 会場は、ギャラリー&カフェ『ジャックと豆の木』です。 ここもオープンに至るまでに素晴らしい経緯があります。 ぜひHPをご覧になって下さいね。 さて、講演会場では当事者の方々が質疑できることを優先して フジノは手をあげて質問はしなかったのですが 懇親会ですから、ガンガン話しかけに行きました。 今回も本当に素晴らしい出会いがたくさんありました。 -------------------------------------------- フジノは『WRAP(元気回復行動プラン)』を絶対に広めたいと 決心しているのですが 日本で『WRAP』の活動をすすめている 中心メンバーのお1人である久永文恵さんとお話することができました。 3月に千葉で行なわれた『WRAP』ワークショップの 写真にも、久永さんが写っていますよね。 そんな中心メンバーの1人とお話しすることができて しかも「WRAPを日本に広めたいんです」と宣言してきました。 もう後戻りできないぞ、おれ。 がんばらなければ! 今日の主役のエミーさんです。 通訳に入っていただきながら 当事者の方々の『リカバリー』を実現する為に 政治にはどんなサポートができるかを質問させていただきました。 自殺予防対策に取り組んでいることや 精神保健福祉についてこれまで取り組んできたことなどもお話しして とても関心を持っていただけました。 かつて僕もロスに行ったんです、 SSTを学びたくてリバーマンさんに会うためにUCLAに行ったんです、 大学では臨床心理学を学びました、 今は精神保健福祉士でもあります、 ということもお話しました。 「それなら、次はあなたがロスに来る番ね」 と言われました。 「うーん、僕は飛行機に乗れないんですよ...。 こないだ、別の件でイギリスのブリストル市からも招待されたのですが 飛行機に乗れないのでお断りさせていただいたんです(涙)」 とお返事しました。 すると、 「あなたは『リカバリー』を信じるんでしょう?」 と尋ねられ、 「もちろん信じています。リカバリーを信じないなら 人がみんな持っているエネルギーを信じないことになってしまいます」 とフジノが応えると 「それならば、あなたは必ずロスに来れますよ。 必ず飛行機に乗って、来れますよ。リカバリーを信じて。 約束よ」 と言われました。 マリコさんは日本語もぺらぺらなので エミーさんとの通訳もしてくれました。 エミーさん、マリコさん、本当にありがとうございます。 リカバリーを信じているからこそ、 僕はどんな時だってがんばってきたと自分のことを思っています。 ただ、飛行機はなぁ...。 ムリ、と言いたいけれど、 お2人ともかつて飛行機に乗るとパニック発作が出てしまうのを 乗り越えて日本に来られたとおっしゃっていました。 それならば、僕だって。 来年、ロスに行って『ビレッジ』を見学して さらにはお2人に再会できるようにがんばります! こうなったら、イギリス・ブリストル市にも行ってみせる。 (本当に行けるのかなぁ...) ----------------------------------------------------- ものすごく長い活動日記になりましたが、 『リカバリー』の雰囲気、少しだけでもあなたに伝わったならば とてもうれしいです。 精神保健福祉の為に、まだまだやるべきことがたくさんあります。 人はみんな絶対に元気になれるんです。 あなたもリカバリーを信じて。 僕も、強く信じています。 ● 政務調査費の領収書の公開(第3弾) 昨日に引き続きまして、 政務調査費の領収書の写しをHPで公開します。 今日は『資料購入費』の分です。こちらをご覧下さい。 必ず全てを載せますから、 もう少しお時間くださいね。 ● 目がまわる... 明日は厚生労働省だ。 来週からまた議会が始まる。 6月議会だ。 心身の限界を感じるなぁ。 がんばろう。 |
2008年5月27日(火)のフジノ |
● 外務副大臣と市長・市議会議長との会談について 予定通りに今日は17時から30分間だけ 外務副大臣が横須賀市役所を訪れて 蒲谷市長・山口市議会議長らとの 会談が行なわれました。 その内容について19時頃に 市議会議員宛に報告がありました。 会談内容は、これまでの報道内容を超えるものは 特にありませんでした。 --------------------------------- 夕方まで教育委員会の各課のヒアリングをしていたフジノは ちょうどこの外務副大臣が横須賀市役所を出る時間に ぶつかってしまいました。 玄関前は、黒塗りの車に乗り込む副大臣を お見送りをする市職員の人だかりで 何だかすごいことになっていました。 地方分権で、国も地方自治体も 上下のカンケーではなく、対等である、となりましたが 実際には、そうなっているのか、疑問を感じました。 ● 『CHANGE』は現実に起こせる! 今夜23時半頃、横浜市民の若い男性から お電話をいただきました。 お話をうかがうと これまで政治には一切関心が無かったけれど 木村拓哉さんが主演する政治がテーマの ドラマ『CHANGE』を観て政治に関心が沸いて インターネットで政治家のHPを観ていたら フジノのHPにたどりついて そこに携帯電話の番号が書いてあったので 「本当に政治家と話ができるのか?」と思ってかけてみた、 とのことでした。 30分ほどいろいろなお話をうかがって、 政治への不信、政治への怒り、というのを 改めてひしひしと感じました。 けれども同時に、反論もさせていただきました。 政治がダメだ、政治家がダメだ、と 観客席から文句を言っているだけではダメですよ。 政治は必ず変えられるのです。 あなた自身が動くことで、必ず政治は変えられるのです。 だから、今の政治をあきらめないで あなた自身が動き出して下さい。 そうお伝えしました。 そして、どんなことができるだろうか?と尋ねられたので 個人でもできることをいろいろお話しました。 もちろん、 あなた自身が政治家に立候補するのもいいと思います。 というのもお伝えしました。 誰かに期待するのは、カンタンですが 誰かが現れるのを待つよりも、自分が動く方がもっとカンタンです。 ドラマ『CHANGE』を観ていると 感動するシーンがたくさんあって これまでの自分の歩みとクロスさせてしまうことがあります。 でも、3話まで観て、いつも結論として思うのは このドラマを観て政治に関心を持ったら ひとりひとりが立ち上がってほしい キムタクの総理はカッコいいし、日本を変えてくれそうだ。 でも、ドラマの中だけなんだろ... なんて思わないでほしい、とフジノは願っています。 あなた自身がこの国の主役なのですから。 この国を変えたいと本気で願って本気で行動するならば 必ずこの国は変わります。 『CHANGE』はドラマの中のおとぎ話ではなく 現実に変化を起こせるのです。この国は必ず変えていけるのです。 だから、あなたも一緒にこの国を変えていきましょう! 必ず『CHANGE』は起こせるのですから。 ● 政務調査費の領収書の公開(第2弾) 昨日に引き続きまして、 政務調査費の領収書の写しをHPで公開します。 今日は『調査旅費』と『資料作成費』の2つ分です。 こちらをご覧下さい。 必ず全てを載せますから、 もう少しお時間くださいね。 |
2008年5月26日(月)のフジノ |
● 明日、外務副大臣がやってきます 先ほど、市議会議員宛に連絡がありました。 木村・外務副大臣が明日、 蒲谷市長を訪れて アメリカ兵の犯罪防止についてと 原子力空母の配備についての2つについて わずか30分だけ話をするそうです。 こんな大切な問題で、1つ15分間の為に 横須賀にわざわざやってくるんですか? そんなことに一体どれだけ意味があるのか、 全く理解できません。 外務副大臣がわざわざ来たことに 『重み』とか『意味』を感じる人なんて誰もいないと思います。 政府がこのまちのことをいかに考えていないか、 改めてよく分かりました。 ● 政務調査費の領収書を公開しはじめました フジノの作業に時間がかかってしまい 遅くなってごめんなさい。 今年から、横須賀市議会では 支払った政務調査費の証拠として『領収書の写し』を 添付して提出することになりました。 これらは、市役所に行って 情報公開請求とか閲覧の手続きをしないと見れないのですが フジノには、インターネットの時代に 市民のみなさまがわざわざ市役所まで行く必要があるとは思えません。 HPで公開すればいいだけの話です。 まだ、制度としては ようやく今年『領収書の写し』の添付が義務づけられただけで、 先進的な他のまちの議会のような 『インターネットでの公開』までは行っていません。 そこで、フジノは一足先に自分のHPを使って インターネットでの公開を始めることにしました。 こちらをご覧下さい。 という訳でで、今日はとりいそぎ、 研究研修費の9万7000円分のみですが 『領収書の写し』を載せますね。 必ず全てを載せますから、 もう少しお時間ください。 |
2008年5月25日(日)のフジノ |
● 久しぶりの1日休暇 僕は『ワーカホリック』というか『仕事依存症』の生き方なので 働いている方が気がラクなんですね。 でも、それでは健康の為にはダメなので、 今年に入ってから本当に久しぶりに 今日丸1日休暇を取りました。 原子力空母ジョージワシントンが火災を起こして 情報が全然入ってこない中で 横須賀市の政治家として このタイミングで休暇を取ることはかなり無責任に感じられて (でも、できることは全くといって良いほど何も無い) かなりの自責感を覚えながら えいやと思い切って外出しました。 ノートPCは勇気を出して自宅に置いていきましたが 医療構造改革の本は持ってきました。 しつこいですが、仕事している方がラクなんです。 でも、ワークライフバランスを訴えている政治家自身が ライフの部分が全く無い暮らしではダメなのです...。 もっと思い切って、休まなければ。 ----------------------------------------------- 今日は赤坂サカスへ3時間ほど、行きました。 目的は、TBSの某番組の、観客としての事前説明会です。 TBSの一室に10人ほど集められて、 モニターから流れるビデオ映像を見せられて それを観ている自分たちのリアクションが撮影されました。 説明がいろいろあったりして、1時間ほどで終わり。 次に、赤坂サカスの地下へ降りて トップスでカレーを食べました。 トップスのかわいいカップ。 それから1度地上に昇って TBSショップに行って また地下に戻って デリフランスでお茶をしました。 デリフランスの窓際に座ると、 地上へ出る階段(赤坂BLITZにつながっています)が見えるのですが なんと僕の好きな244 ENDLI-x-のライブツアーの最終日で 17時から赤坂BLITZでライブがあるようでした。 すさまじい数のファンが並んでいて 人混みがニガテなのですが これからライブなのかと思うと、かなりうらやましかったです。 -------------------------------------- それから品川へ戻りました。 いつもの『ひとり合宿用ホテル』で休憩。 ここは、かつて大学院の入試の必要書類を書く為に 2泊3日のひとり合宿を組んだ場所でもあります。 あの時はカーテンをしめきって 1日18時間くらい原稿を書いたのでした。 でも、東京タワーが部屋から見えるので それだけが救いでした。 今日も天気は悪かったのですが、かろうじて見えました。 東京タワー。 疲れたので2時間ほど眠ってから、 またお腹が減ってきたので『品達』へ。 『けいすけ』の黒みそは、何回食べてもおいしい。 その後、品川プリンスシネマのレイトショーで 『ナルニア国物語 第2章カスピアン王子の角笛』を観ました。 幼い頃、原作を読みふけったものですが 映画化されても原作を裏切らない、 まあまあの作品です。オススメです。 その後、部屋に戻って 東京タワーの夜景をぼおっと眺めて過ごしたり お風呂に入りながら後期高齢者医療制度について 本を読んだりいろいろ考えたり やっぱり弱気になって ケータイで仕事のメールチェックをしてしまったりして あっという間に1日の休暇が過ぎていきました。 次のお休みはいつになることやら。 さて、明日は午前中に横須賀に戻って すぐに仕事に復帰だ。また、がんばろう。 どうか世の中のみなさまも 時々は休暇を取ってくださいね。 |
2008年5月23日(金)のフジノ |
● かかりつけ医と精神科医の連携に向けて(第2弾!) またも横須賀の自殺予防対策が さらに一歩すすんだ夜でした。 今夜は、横須賀中央のセントラルホテルにて 4月24日に続いて、 かかりつけ医と精神科医の連携をすすめる為の取り組み の第2弾が行なわれました。 今日のメインメニューは、大野裕先生による講演「うつと自殺対策」です。 大野裕先生(慶応義塾大学保健管理センター教授)は すごく有名な方で、横須賀に来て下さったことを フジノはとても感謝しています。 政治家としてフジノが自殺予防対策を初めて訴えた5年前には とても考えられないことで、すごく不思議な感じです。 世間一般的な感覚では大野先生は 皇室の皇太子妃・雅子さまの治療にあたっている ということで有名だと思うのですが フジノたち自殺予防対策の世界では、 大野先生は、日本うつ病学会や日本自殺予防学会での活躍をはじめ、 NHKなどのテレビ番組でうつ病をわかりやすく語って下さる すごく頼もしい存在です。 (ところで、かかりつけ医と精神科医の連携、ですが言葉が長いので、 このHPではフジノ的に省略して『G−P連携』と呼びますね。 この省略した呼び方は、 大阪で積極的に活動してくれている『G−Pネット』のマネです。 一般のかかりつけ医(G)と精神科医(P)の連携ということで 『G−P連携』ですね。これはあくまでも このHP内での呼び方ですからね) 会場はぎゅうぎゅうの満員でした! 内容的には一般的なことが多かったのですが、 それはあくまでも自殺予防がメインのフジノにとって一般的なこと、 という意味で 全国の最新事例や有名な取り組みを 包括的にお話していただけました。 日頃フジノが日本自殺予防学会に出たり 全国の事例や何か新しいことを学ぶたびに 「ああ、これをおれ1人だけが知っていてもしかたないんだよなぁ。 おれなりに必死でHPに載せて紹介しているけれど、 たぶん情報が足りないし、伝わりきっていない。 保健所の職員さんや現場で働いている人たちにも 実際に直接こういう学会に勉強に来させてあげたい...」 と、いつもいつも感じていました。 例えば、自殺予防対策の世界では常識になりつつあることも フジノが市議会で提案をしても 「フジノ議員が突然またそんなことを言い出して...」 みたいな雰囲気になるんですよね。 でも、いつも横須賀に最新の知識を持って帰ってきてるのに...と すごく残念な気持ちになることが多いんです。 けれどもこういう最先端の先生に来てもらって 分かりやすいお話をしてもらえるということは そういうギャップを埋めていくための本当に良いチャンスでした。 今日の会場の主な参加者は、 一般の内科医の方々(いわゆる、かかりつけ医の方々)なのですが 保健所の精神保健福祉担当の方々や 教育研究所の職員の方々も来てましたので 全国の先進的な取り組みをはじめ、 いろいろな共通の認識を これで持てるようになるといいなぁと強く願いました。 ----------------------------------------------- 横須賀の『G−P連携』をすすめる為に とても大きな意味があった講演会ですが (G−P連携の重要性についてはこちらを改めてご覧下さい) 横須賀三浦精神科医師会(三浦半島の精神科医の会)の会長である 大滝紀宏先生(湘南病院副院長・精神科医)の ご尽力のおかげでこんな貴重な機会が横須賀で実現したのだ とフジノはこころから感謝しています。 また講演会は 横須賀三浦精神科医師会・横須賀市医師会・ファイザー(株)の 3者が主催して下さり、多くの関係者の方々のご協力にも とても感謝しています。 大滝先生が講演会の最後におっしゃったのですが 「自殺対策は地域づくり」 なのですね。 自殺ゼロのまちづくりは、 イコール『生きやすいまちづくり』なのです。 今も硫化水素による自殺が続いています。 このまちでもすでに起こっています。 けれども、今苦しんでいるあなたに届いてほしいと願いながら あえて強く訴えたいと思います。 政治も行政も、精神科医もかかりつけ医も、 教育関係者も保健所も、あらゆる関係機関もみんな、 いつだって本気です。 その苦しみは、必ず取り除けるように我々が全力で努力します。 だから、あなたが持つその苦しみに寄り添わせて下さい。 つらい気持ち、苦しい想い、生きづらさ、 全てを僕たちにぶつけて下さい。 そのつらさや苦しさや生きづらさは 変えることができるからです。 いつだって、我々は全力で本気で活動しています。 だから、もう死ぬしかないと思ったら その最期の瞬間に至る前に どうか我々に声をかけてほしいのです。 力になれることが必ずあるからです。 |