まちの政治家は、こんなことしてます


2011年10月22日(土)のフジノその2
● 2か月に1度の再会は、自分を見つめる鏡だ

 真夜中から明け方にかけて
 ドブ板通りにある『GREEN HILL』へ行きました。

 卍LINEくんが主催している『FREDDOM FREAK』
 約2か月に1度の開催なのですが、今回で17回目になりました。



 すさまじい数のお客さんと激しい熱気のせいで 
 酸欠を起こしそうだった前回(8月)に比べると

 今夜は強い雨が降っていたこともあって
 いつもよりお客さんが少なかったです。

 でも、そのおかげでフジノは
 いつもよりもじっくり音に耳を傾けることができました。



 東日本大震災が起こって以来、
 被災地支援に何度も訪れている卍LINEくんは

 今回もサブタイトルとして
 『東日本復興支援 DANCE PARTY』と明記していました。

 そして、震災の直後に作った歌を
 今日も歌い続けていました。

 (横須賀で初めて『日本のうた』を歌った4月16日の動画↓)


 その姿に、フジノはとてもホッとしました。



 東日本大震災から7か月が過ぎて、
 復興に向けて大きな動きがあった訳でも何でもないのに

 人々のこころが急速に移り変わっているこを
 毎日フジノは実感しています。

 それはどうしてもしかたがないこととはいえ
 ふと、とても切ない気持ちになる瞬間があります。

 どんなことがあろうともフジノはこれからも絶対に忘れないし、
 ずっとその為に仕事を続けていくのだと決心しているのですが

 それでも周囲の人々との気持ちとの
 大きな『ズレ』を感じる時に
 くじけそうになることがあります。



 だから、卍LINEくんの変わらない姿に
 フジノは援軍の姿を見つけたような気持ちになります。 

 彼はきっと変わらないだろうと思うのです。

 そして、彼が変わらないのならば、
 僕もまた変わらずに生きていけるだろうと僕は信じています。



 これからも僕はこうして彼の姿を見るたびに

 「この2か月間、おれは恥じない仕事をしてきただろうか」

 と自分に問いかけて

 「大丈夫、今のところは全力でしっかり働いてこれた」

 と確認していくのだと思います。

 絶対に忘れない。
 まだ何も終わっていない。



2011年10月21日(金)のフジノ
● 自殺対策シンポジウムを開催しました/講師にアグネス・チャンさん

 今日は、横須賀市としては初めての
 『自殺対策シンポジウム』が開催されました。

 (2011年9月30日・神奈川新聞より)

 このシンポジウムは3月26日に開催予定だったのですが
 東日本大震災が起こった為、延期されていました。

 それが今日こうして無事に開催できたこと、
 さらに、大成功に終わることができて本当に良かったです。



 定員400名の会場は超満員でした。

 その理由はやはり、基調講演の講師を引き受けて下さった
 アグネス・チャンさんの『個人としての人気』によるものだと思います。



 講演(彼女の人生についてのお話)を聴くまでは
 アグネスさんのことを全く詳しく知らなかったフジノには

 日本ユニセフ教会の親善大使をしていたとか
 24時間テレビに出演していたことくらいしかイメージがありません。

 だから、当初、『自殺対策』シンポジウムの基調講演に
 あえて彼女を配置した理由は
 『人寄せパンダ』なのではないかと感じました。

 フジノが生まれる2年前に大ヒットした歌手の方ですから
 彼女をリアルタイムで知っているのは
 現在50〜60代の方々です。

 日本ではまさにこの世代(特に男性!)の
 自殺率が特に高いので

 シンポジウムの参加者のターゲットとして
 より多く呼び込む為にアグネスさんをキャスティングしたのだろう
 と受け止めていました。



 しかし、実際にアグネスさんの講演を聴いてみて
 彼女の人気は、単なる芸能人としてのものではないのだ、
 と分かりました。

 彼女が生まれてから現在に至るまでの人生は
 決して順風満帆では無くて

 「山あり谷あり」というよりも
 むしろ「険しい厳しい山と深い谷底とが何度も現れる」という感じです。

 それをご自身の努力や周りの方々の助けもあって
 1つ1つ必死にのりこえてきた、
 大変な苦労人であることが講演からひしひしと伝わってきました。

 アグネスさんの講演に会場全体が引き込まれていました。
 とても素晴らしかったです。

 現在56才のアグネスさんのお話に
 37才のフジノも強く励まされましたから

 50〜60代の同世代のみなさまは、
 もっともっと励まされたのではないかと思います。

 シンポジウムの大切な基調講演のキャストとして
 アグネス・チャンさんはまさに最適な方だったと感じました。

 今日、会場に来られなかった方々にも
 ぜひ機会があれば、アグネスさんの講演を聴いていただきたいです。



 基調講演に続いて、シンポジウムが行なわれました。

 コーディネーターをつとめて下さったのは、
 我らが大滝紀弘先生(横須賀市自殺対策連絡協議会・会長)です。

 大滝先生は、まさにアグネスさんと同い年だそうです!

 大滝先生にしてもアグネスさんにしても
 とても素晴らしい活動をなさっていて

 このお2人の姿を見ていると、
 自分も今苦しいことがいっぱいあっても
 なんとか生きのびていこうという元気をもらえました。



 さらに、シンポジウムでのやりとりの中で
 アグネスさんのお姉さんの1人が
 香港でドクターをしていて
 自殺予防対策の団体をたちあげて活動を続けている
 とのお話もありました。

 日本では数年前から「お父さん、眠れてる?」という
 『睡眠キャンペーン』を繰り広げていますが

 アグネスさんのお姉さんの団体でも
 不眠をターゲットにして活動を行なうことで成果があがりつつある、
 とのことでした。

 睡眠とメンタルヘルスの重要なつながりは
 国を問わない大切なことなのだ、と改めて確認しました。



 こうして横須賀市としては初めての
 『自殺対策シンポジウム』は、大成功に終わりました。

 フジノが大成功だと感じたのは、会場が満員だったからではありません。

 満員の参加者の方々が
 みなさん笑顔で帰っていくのを見ることができたからです。

 基調講演にしても、シンポジウムにしても、
 決しておもしろい話ではありません。

 自殺について、そして東日本大震災後の被災地について
 現場の方々からの想いや活動が語り合われました。

 こうしたシリアスなテーマを扱ったシンポジウムでも
 人は希望を感じることができれば、笑顔になることができます。

 シンポジウムのタイトルでもある
 「私、ゲートキーパーはじめました」というフレーズのとおり

 人々が自殺へと追い込まれてしまう前に
 隣人として誰もがゲートキーパー(門番)になってもらうことが
 今日のシンポジウムの目的です。

 ゲートキーパーには誰でもなることができると
 自殺対策の分野で言われていますが

 フジノは「1つ条件がある」と考えています。
 それは、「希望を感じることができること」です。

 生きていてもなかなか良かったことなんて無いのが
 今の経済社会状況の日本の現実です。

 それでも人生に「イエス」と言える、
 つまり「希望を感じることができること」こそが
 必要だとフジノは考えています。

 だから、今日のシンポジウムに参加して下さった
 満員の参加者のみなさんが笑顔で帰っていく姿を見れたことは

 フジノにとって、
 大成功だったという意味なのです。

 ゲートキーパーの養成、というのは
 シンポジウムを1回やったから終わりではもちろんありません。

 横須賀市ではゲートキーパー養成の為の
 地道な研修会も定期的に続けていきます。

 こうした活動は種まきに過ぎません。
 大きく花開くのは10年先かもしれません。

 けれども、必ず自殺を減らすことができるとフジノは信じています。



2011年10月16日(日)のフジノその2
● 15年間変わらない嫌悪感、自分も変わらないし、周りも変わらない

 大学へ入学してから15年が経った人(1993年度入学者)を対象に
 フジノが在籍していた大学が
 『ホームカミングデー』というイベントを開きました。



 在学中から母校という意識を全く持たないこともあって
 大学カンケーの行事には関わらないようにしてきたのですが

 今回は、親友が幹事を務めているので
 フジノも顔を出すことにしました。



 しかし、パーティーが始まると
 すぐにフジノは会場を出ました...。

 学生時代から深く強く嫌悪してきたノリが
 卒業から何年経っても
 全く変わっていないことに心底ウンザリしたのです。



 学生時代からフジノは
 この大学に集まる人々のほとんどがかもしだす空気が
 大嫌いだった。

 そんな大嫌いな空気の中で
 親に学費を払ってもらって学んでいる自分も大嫌いだった。

 フジノは、この大学に愛情をひとかけらも感じないし
 ウンザリさせられることばかりだけれど

 唯一、この大学の創立者の言う『在野』精神というものだけは
 大切にしてきたと思う。

 『在野』精神をまっとうすることの1つが僕にとっては、
 この大学に集まる人々のノリに巻き込まれずに
 ひとりでしっかりと学び、ひとりで道を見つけていくことだった。

 それは今もしっかりと貫いていると思う。



 パーティーで出されている食べ物も手を付けずに
 学生時代に常連だったお店に
 ごはんを食べに行きました。

 ここは、卒業してからも仕事で近くに来るたびに
 ミックスを食べにきています。

 とてもいいお店です。



 やっぱりこれですよ。ミックス。



 『三品』でミックスを食べた後、
 演劇博物館と図書館へ行って時間を潰しました。

 そろそろパーティーも終わるだろうかと
 幹事をしている親友にあいさつをすべく会場に戻ったのですが

 まだまだプログラムの半ばだったので
 帰ることにしました。



 フジノが入学した15年前から嫌いだった空気は
 全く変わっていないことを実感するとともに

 その空気をずっと15年前から変わらずに
 嫌い続けているフジノを再確認しました。

 ある意味で『初志貫徹』ですし、
 ある意味で『相思相愛』ですね。



2011年10月16日(日)のフジノその1
● 『ピースフェスティバル』へ行ってきました!

 三笠公園で開かれた『ピースフェスティバル』
 今年も遊びに行ってきました!

 昨夜から朝にかけて強い雨と風が吹いたせいで
 展示物が倒れたり破れてしまったり開催が危ぶまれたのですが

 お昼にはすっかり気持ちいい青空になって
 秋晴れの三笠公園にはたくさんの人が来ていました。

 今年で26回目なのですが
 過去1度も雨天中止になったことが無いそうです。

 きっと『ピースフェスティバル』実行委員会には
 晴れ男・晴れ女がたくさんいるのでしょうね!



 東日本大震災が起こってから
 初めてのピースフェスティバルということで

 原子力発電所の事故から見た
 原子力空母の危険性についてをメイン展示にしていました。

 3月11日以降、市民のみなさまは
 原子力発電所の危険性を嫌というほど感じさせられたはずです。

 福島第一原発から漏れ続けている放射性物質によって
 今後どのような健康被害が起こるのかは誰にも分かりません。

 こどもたちへの影響をどのように減らせば良いのか、
 多くの方々が毎日悩み続けています。

 このような状況が続く今は、チェルノブイリでの原発事故以来、
 国民的な関心が最も高まっている時期だとフジノは感じます。

 一方で、横須賀港に配備されている原子力軍艦は、
 根本的な意味において、原子力発電所と同じ
です。

 つまり、横須賀に原子力発電所があるのと同じだと考えています。

 だからフジノは、原子力軍艦に対しても
 市民のみなさまの関心が深まることを強く願っています。

 ぜひこちらのリーフレット
 『横須賀の港に浮かぶ2つの原子炉』をご覧くださいね。



 ところで、先月9月20日の本会議でフジノは
 吉田市長に対して『脱原発』を明確に訴えるべきだと
 一般質問を行ないました。

 そのやりとりを紹介します。

 (2011年9月20日・本会議・一般質問でのやりとりより)


 (脱原発を明確に訴えるべきだとのフジノの質問に答えて)

 エネルギーの供給や価格の安定性を向上させることは
 国民生活の安定や国家の自立性を確保するという観点から
 国家的な政策であるという考えは変わりません。

 原発の在り方を含めてエネルギー政策については
 政府がしっかり対応していくべき課題であると考えています。




 市長はやはり今回も『脱原発』の方向性を
 市長の『意思』として『価値判断』として明言はなされませんでした。

 「国家的な政策であり、エネルギー政策については
  政府の対応である」ということでした。

 ただ最初に申し上げたとおり
 今、全国民的な関心に『脱原発』はなっています。

 市長もご存知と思いますが、
 昨日は明治公園に脱原発のデモが3月11日の震災以降初めて
 これだけ多くの方々が、6万人もの方々が集結しました。

 これが今の民意な訳です。

 それにも関わらず、
 市民の生命財産を守るのが市長の役割であるにも関わらず
 明言できないのは、あえて何か理由があるのですか。



 私としてはエネルギー政策については
 国が主導的に進めるべきだ、という判断です。




 国が進めるのは当然のことですが、役割分担ですから。

 ただ『市民の生命財産を守る』という立場から
 『脱原発』を政府に求めるということはできると思うのです。

 それにも関わらず、市長は明言できないということは
 僕は勘ぐらざるをえない。

 市長も「原子力ムラ」の一員なのじゃないですか?



 おっしゃるとおり、
 もしも横須賀市内に原子力発電所等が立地している場合は、
 脱原発なのかあるいは原発推進派なのか
 明言する必要などは出てこようとは思いますが


 市内にそうした原子力発電所は存在しませんので

 私としてはエネルギー政策については
 国が判断すべきことだとそのように考えています。




 地域主権改革は「進めろ」と。
 国の方向性であるけれども「進めろ」と。
 自ら牽引役になると。

 このテーマと原子力・脱原発と何が違うのですか。



 全く違うと考えています。




 つまり国の政策であっても、首長が意見を言うことはできる訳です。

 国がエネルギー政策を決めるのは当然のこと。
 法律でそのように決まっていますから。

 ただ、それに対して
 意見を市長として申し上げるのは市長当然できる訳です。

 それをやらないというのは
 先ほど「原子力ムラの一員なのではないか」と申し上げましたが

 もう1つ思うことがあります。

 原子力発電所を横須賀市長が否定すれば、
 原子力発電所と同じ動力を保持している原子力艦船に対しても
 姿勢を問われる
と。

 そういう言質を取られてしまうと思い込んで
 原子力発電所について
 脱原発と言えないというようなお考えなのではないですか。




 そのような考え方ではありません。




 僕は原子力発電所の問題と
 原子力軍艦の問題は分けるべきだと考えていますが

 具体的に脱原発、これは全国民的な希望、
 方向性としての希望なのです。

 それに対して市長は、個人としての思いはあると思うのですが
 横須賀市長として脱原発を望む市民の方々に
 横須賀市としてもこれを目指していくというふうに
 明言することが何故できないのか改めてうかがいたいと思います。

 これまでのご説明では全く理解できません。
 改めて説明して下さい。分かるように説明して下さい。



 大変恐縮ですが、繰り返しになりますが、

 基本的にエネルギー政策というのは
 国が進めるべきことであって

 原発の立地がない横須賀市が
 そのことについて判断をする立場にはない
ということです。




 エネルギー政策を推進するのは政府ですが、
 それについて意見を述べることすら吉田市長は行なわない

 国の言うことには言いなりになるのが
 吉田市長の姿勢なのだ、

 ということを僕は申し上げざるをえません。


 横須賀市長として脱原発をはっきりと打ち出すべきだ
 というフジノの立場と

 そもそも横須賀市内に原子力発電所は存在しないのだから
 脱原発か否かという判断自体すべきではない
 という吉田市長の立場と

 議論が全くかみあっていません。

 その根っこにはやはり、
 根本的な意味において原子力軍艦も原子力発電所も同じ
 だという問題があるとフジノは考えています。

 もしも横須賀市長が「脱原発を目指す」と明言すれば
 「それならば原発と同じく原子力軍艦の母港化もやめろ!」
 と追及されるのは確実です。

 吉田市長はそうした追及を避ける為に
 脱原発さえも言うことができないのだとフジノは推測しています。

 けれども、原子力発電所も、原子力軍艦も、
 どちらも無くすべきだというのが
 ふつうの市民感覚だとフジノは信じています。


 (『非核市民宣言運動・ヨコスカ』の新倉裕史さんとフジノ)


 『ピースフェスティバル』の会場にはたくさんの方々が訪れていましたが
 今年の4月末で市議会議員を引退された
 原田あきひろさんとも再会することができました。


               
 原田さんは、引退前の最後の一般質問において
 毎年開催されている『ピースフェスティバル』に決して訪れない
 吉田市長の姿勢
を質しました。

 ぜひみなさまに知っていただきたい質疑ですので
 ここで紹介します。

 (2010年12月2日・本会議・原田議員による市長への一般質問)





 10月24日、三笠公園で開かれていた
 『ピースフェスティバル』を尻目に、

 市長は、三笠艦内で開かれた
 講演会「日露戦争にみる武士道」に参加され、
 あいさつをされたそうですが

 まず、『ピースフェスティバル』に寄らなかった理由は何でしょうか。

 御案内も届いていたはずですが、
 これを無視した理由は那辺にあるのでしょうか。

 同じ場所です。

 たしか市長は市議時代に、原子力空母母港化をめぐっての
 住民投票を実施しようとの運動があったときには、
 参加議員としてあいさつもしましたよね。

 当時、ともに運動した方や運動団体の方々は、
 私も同様ですが非常に不信感を持っておられます。

 お伺いいたします。






 何故『ピースフェスティバル』には寄らなかったのかについて
 御質問をいただきました。

 当日、午後3時半にというお招きをいただきましたが、
 その時間はスケジュールの都合で行くことができませんでした。





 『ピースフェスティバル』でのあいさつということを
 私は問うたわけですけれども、

 3時半に案内を受けていたと、
 3時半に来るようにという案内だったのですかね?

 3時半というと(ピースフェスティバルは)
 もうそろそろ終わり(の時間)なのですよね。

 そういう時間というのは私は信じられないのですが、
 3時半より前からずっとやっていました。

 10時からやっていましたので、
 市長が三笠に行った時にはやっていたと思うのですが、
 いかがでしょう。






 確かに三笠に寄った折には開催をしていましたが、
 その日は午前中5件用事がありましたので、
 立ち寄るという時間はありませんでした。






 忙しかったということですけれども、
 確かに5件あって忙しいんだなと思いましたけれども、

 しかし、例えば『ピースフェスティバル』に寄っても、
 壇上に上ってあいさつをしろというような場面は無いのですね。

 受付で主催者に会いたいとか、
 あるいは主催者におめでとうございますと言ってください
 というようなことだけでもよかったと思うのですよ。

 それぐらいのことだったらできただろうと思うのですけれども、
 主催者に、受付でということでお考えいただきたかったな
 と思うのですけれども、

 御見解をお伺いします。






 ただ、議員質問の中で、
 私は出席をしたことがあるというようなお話がありましたが、

 恐らくそれは別のイベントではないか
 と記憶しています。

 故内藤当時の議長と当時の杉本副市長が出席した会があって、
 その会に私も呼ばれたとき、出席したことを記憶していますが、

 それが『ピースフェスティバル』であったとは、
 私、記憶をしていません。

 そのような意味で、

 議員時代から
 この『ピースフェスティバル』には1度も出席をしていない


 と、そのように記憶をしています。






 内藤議長、杉本副市長という方々がいらっしゃいました。
 『ピースフェスティバル』にもいらっしゃいました。

 それで原子力空母の母港化の問題がそこで出てきていて、
 運動があったときなのです。

 内藤故議長からは、私も怒られたのです。
 いろいろなことがありまして怒られましたけれども、
 『ピースフェスティバル』です。






 それは大変失礼いたしました。

 ただ、当時の記憶で大変恐縮なのですが、
 議員時代、当時の原島議員からお声かけいただいたときに、

 私、この『ピースフェスティバル』というやり方については、
 あまり積極的に参加をしたいとは思いません


 ということを申し上げて、

 ただ当時、私は原子力空母の署名活動に
 賛成の意を示していましたから、住民投票のですね。

 その件については賛同するところがあるので
 参加をしたのだろうと思います。






 実は私がこのようにこだわったのは、
 11月14日、『ピースフェスティバル』が終わって3週間後に、

 全造船浦賀分会の出身の、
 全国的にも著名になられた護憲大会で遠藤三郎賞という賞を、
 人権賞ですけれども、いただいた方が亡くなられたのですよね。

 この方は『ピースフェスティバル』の主催者の1人ということでもあって、
 私はこの方が車いすで来場していたということから、
 こういう方にはやっぱりあいさつしてほしかったなと思いましたので、

 今も少ししつこいように言いましたけれども、
 やっぱり平和運動などを進めておられる方は、
 「あのときには来たんだけれども今回は来なかった」ということで
 不信感を持っておられるということでは
 払拭していただきたかったなと思うのです。



 原田議員とのこの質疑を聴いて
 フジノはとても驚きました。

 昨年の活動日記にも書いたとおりで、
 フジノは中学時代から毎年のように
 この『ピースフェスティバル』に参加しているのですが

 吉田市長は、このピースフェスティバルについては
 参加したくないとのことでした。

 吉田市長がこのイベントの何を危険視しているのかが
 全く理解できません。

 26年間の歴史がある『ピースフェスティバル』ですが
 横須賀市として正式に『後援』しているイベントです。

 それを吉田市長は市議時代から参加したくなかったし
 今後も参加したくないと考えているそうです。

 そこまで拒否する理由も
 全くフジノには理解できません。

 このイベントは名前のとおりで平和を求めるお祭りです。

 露店の焼鳥やお好み焼きを食べながら
 ステージのライブを聴きながら
 展示を眺めて歩いて、対話をする場です。

 それなのに市長は、

 「私、この『ピースフェスティバル』というやり方については、
  あまり積極的に参加をしたいとは思いません」


 と答弁しています。

 どこがどういけないのか
 フジノには全く理解できません。

 市民のみなさまには、ぜひ1度、実際に足を運んで頂いて
 どちらがみなさまの想いに近いものかを感じていただきたいです。

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 そんな訳で上に記したような
 いろいろなことを感じた『ピースフェスティバル』でしたが

 「フジノさん、食べ物をたくさん買いすぎ!」

 と、ひやかされならば

 秋の日曜日の三笠公園を
 フジノはただ楽しく過ごしたのでした。

 露店をしていた方から

 「フジノくんも市長になったら
  『ピースフェスティバル』に来なくなるのかねえ」

 と心配をされてしまいました。

 市長という肩書きがつくと
 こんな幸せな時間も過ごせなくなるのならば

 横須賀市長というのは
 とてもつまらない仕事だと感じました。

 だから、市長なんかになることは絶対に無いです。

 おいしいものを食べて、みんなと笑って、
 晴れた空の下で気持ちいい時間を過ごすことが
 幼い頃からのフジノの宝物だから。

 そんな大切なものを捨ててまで
 就くべき仕事とはとても思えないです。



2011年10月15日(土)のフジノ
● 飯舘村を支援する為に市民としてできること/第2回目の報告会へ

 今日は、朝から平塚へ向かいました。


 NPOエコロジー・アーキスケープ
 NPOひらつかエネルギーカフェの主催で行なわれた

 『Iitateはいま。飯舘村放射能公害現状報告会2』

 に参加しました。



 今日の報告会は、4月30日に開かれたミニシンポジウム
 『飯館村支援の為に市民ができること』に続く第2回目なのですが

 会場に一歩入った途端に
 フジノは、大きなショックを受けました。

 参加者の数が、あまりにも少なかったのです。

 前回も同じ会場で開かれたのですが
 立ち見が出たほどの超満員でした。
     ↓
 前回の
 様子です。

 それが、今日はガラガラでした。
    ↓
 今日の
 様子です。

 東日本大震災が起きてから、わずか7か月。
 前回の報告会からは、たった5か月しか経っていません。

 人のこころのうつろいやすさを
 改めて感じざるを得ませんでした。


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 プログラムの1番目は、
 小澤祥司さん(飯舘村後方支援チーム)から

 『飯舘村の放射能汚染と除染の課題』

 についてです。



 小澤さんをはじめとする飯舘村後方支援チームのみなさんは
 東日本大震災がきっかけで飯舘村に入ったのでは無くて

 長く、深く、飯舘村と村の人々に
 ずっと関わり続けてきた方々です。

 これまで約20年にわたって飯舘村での
 エコロジカルな村づくりを行なってきたメンバーです。

 その活動は実を結んで、飯舘村は
 エコロジカルな村として
 少しずつ全国に知られるようになってきていました。

 それが今では全く逆に
 放射能汚染の被害を受けた村として
 世界に知られるようになってしまいました。

 小澤さんらは3月11日以降も飯舘村を訪れ続けて
 放射線量の計測をはじめ、あらゆる活動を行なっています。

 9月15日には『後方支援チーム提言』を発表しました。
 ぜひご覧ください。



 プログラムの2番目は、
 菅野浩さん(村民グループ『負けねど飯舘!』)から

 『村民の避難生活の実態と課題』

 についてです。

 震災当日から現在に至るまでの
 飯舘村の村民のみなさんの暮らしをお話しして下さいました。

 さらに、先日発表された飯舘村の除染計画についてや
 避難生活を強いられている村民の方々の想いについて
 語って下さいました。

 最後に菅野さんは、

 「これからもみなさまがたと繋がっていければありがたいです。
  新しい生活基盤を求めていかねばなりません。
  その為のいろんな勉強もさせていただきますし、
  がんばっていく力になりますので
  どうか助言をお願いします。

  現実的に村民がいつまでも暗い想いをしていく訳ではダメだし、
  批判ばかりするつもりもありません。

  私たちは精一杯頑張ってまいります。
  生きていかなければならないので、どうかよろしくお願いします」

 とおっしゃいました。

 この言葉をこころに刻まなければと
 フジノは感じました。



 プログラムの3番目は、飯舘村後方支援チームの
 浦上健司さん(NPOエコロジー・アーキスケープ)から

 『飯舘村村民支援活動』

 についてでした。

 報告の一部を紹介します。

 ・毎月、現地での汚染調査。
 ・「まけねど飯舘」の活動支援。
 ・村民の避難生活の充実、連帯維持にかかる支援。
 ・高齢者の知恵や技術のアーカイブ、文化の避難。
 ・保障ある移住の権利の獲得に向けた活動。
 ・村外での普及啓発活動の実施。
 ・村民支援活動にかかる支援金窓口の開設。
 ・財団などからの活動助成金の獲得。

 などなど...。

 福島県内に散らばっている仮設住宅で暮らす村民の方々と
 日本全国へ避難を強いられている村民の方々とが

 飯舘村での地域の『絆』を失ってしまわない為に
 あらゆる活動を行なっていることが報告されました。

 その中で、とても印象に残ったのが
 『飯舘までぇな避難村』構想でした。

 仮設住宅を1軒ずつ訪れて
 あるいは県外に避難しておられる方々を訪れて
 意見や要望をうかがって

 「半恒久的な避難生活」、あるいは「新しい定住」としての
 『飯舘までぇな避難村』構想を提案したのです。


 今、飯舘村長は「飯舘村への帰村」を打ち出して
 除染計画を発表していますが

 一方で、「除染による帰村」という選択肢しか無いのはおかしい
 という村民の方々の声がここに反映されています。

 これは決して村長を批判しているのではないと思います。

 現在うちだされている『飯舘村復興計画』の
 「住宅は2年、農地は5年、農林は20年で除染を完了する」という言葉を
 フジノだって信じることはできないからです。

 今だって福島第一原発の放射性物質漏れは続いているし、
 飯舘村は小さな村とはいえども230平方キロメートルもあります。

 2年で帰れるなんて希望に満ちた約束をしておいて
 それが実現できなかった時の絶望は、計り知れないものになるでしょう。

 選択肢が1つしかないというのはおかしい
 とフジノも考えます。

 『飯舘までぇな避難村』について詳しくはこちらをご覧ください。




 プログラムの最後は、
 大嶋朝香さん(NPOひらつかエネルギーカフェ代表)から

 『市民としてできる支援』

 についてでした。

 そして、会場の参加者との意見交換が行なわれました。

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 「飯舘村を支援する為に何ができるのか」という問いかけを
 フジノはずっと考えてきました。

 ずっと考えてきて、今のところの僕なりの答えは2つです。

 第1に、絶対に忘れないこと。
 第2に、できることを全てやること。

 カッコいい答えでは無いけれど、
 政治家としても個人としても
 この2つを続けることしか無いと信じています。

 飯舘村後方支援チームのみなさんの活動のように
 フジノは現地を訪れることもできなければ

 福島県内の仮設住宅を回ったり、
 全国に避難しておられる方々を訪れてまわることもできません。

 でも、飯舘村を支援する、というのは同時に
 飯舘村だけを支援することではないのだと思います。

 絶対に忘れない。そして、できることを全てやる。

 フジノなりに考えたこの2つの答えを
 ずっと続けていきます。



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